第3580話 2026/01/15

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (5)

 ―弘前中学の教師、天内氏と森氏―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)の裏に書かれた、「森」《男B》が、著名な津軽の歴史家で旧制弘前中学校(現青森県立弘前高校)教師の森林助氏(1880~1935)である可能性がでてきました。そこで、森林助氏の写真探索のため、秋田孝季集史研究会の皆さんに協力を要請しました。そうしたところ、玉川宏さん(同会・事務局長)より、『鏡ヶ丘百年史』(注①)のコピーが送られてきました。

 同誌には、弘前中学校の著名な教師として森林助氏の名前や記事が散見され、同氏の写真も掲載されているのですが、画像が不鮮明で「記念写真」の「森」《男B》と断定できるほどではありません。しかし、顔の輪郭や眼鏡をかけていることなどが似ており、別人と断定することもできないように思いました。

 ところが、同誌には「森林助」と並んで「天内兼太郎」の名前が散見するのです。すなわち、弘前中学には「森」と「天内」という「記念写真」裏に記された名字を持つ二名の教師がいたのです。この事実は、「記念写真」の人物が森林助氏と天内兼太郎とすることを強く示唆するもので、わたしには決定的な証拠と思えました。こんなことが偶然に起きるとは考えにくいからです。

 しかしながら、同誌には天内兼太郎氏の写真はなく(大勢の集合写真はあるが、人物は小さくて見分けられない)、「記念写真」後列の「天内」《男A》と比較確認することができません。そのため、天内兼太郎氏の写真を探したところ、『鏡ケ丘同窓会報』六号(昭和39年・1964年)に同氏最晩年(八十歳)のときの写真があり、「記念写真」とは年齢は離れていますが、顔の輪郭や禿頭であること、右肩が左肩より下がっていることなどの共通点があり、同一人物であると思われます。『鏡ヶ丘百年史』にも、同氏のことを記した記事(599頁)に「小柄で禿頭」とあり、「記念写真」後列に見える他の二人の男性と比べると、「天内」《男A》が最も低身長であり、記事に記された容貌・体型と一致しています。

 『青森県人名辞典』(東奥日報社、1969年)には、弘前中学で大正9年(1920)11月から昭和21年まで教鞭をとっていたと記されており、次の説明があります(注②)。

 「天内兼太郎(あまない・けんたろう) 明治一八~昭和四○(一八八五~一九六五)県立弘前中学校教諭。中津軽郡岩木町生まれ。旧姓坂本。軍隊生活が長く、大正九年特務曹長(後の准尉)で退職して、県立弘前中学校に奉職。教練と体操を担当、昭和二一年まで二五ヵ年余にわたって、幾千の弘中生から〝カレコ〟のあだ名で敬愛された名物教員。八〇歳で死去。」

 同じく『青森県人名辞典』には、森林助氏についても次の説明があります。

 「森 林助(もり・りんすけ) 明治一三~昭和一〇(一八八〇~一九三五)福島県の人。国学院大学で国史学を専攻。青森県火造中学校を振り出しに明治四二年弘前中学校に転じ、没するまでながく同校に教鞭をとった。その間、地方史の開拓研究にうちこみ、陸奧史談会の運営の中心となり、青森県史の編さんにも関与し、地方史研究の進展におおきな功績を残した。その著書は「山鹿素行と津軽信政」「津軽弘前城史」其の他数多く、後進を益するところ多大なものがある。」

 こうして、「秋田重季氏ら記念写真」に並んで写っている六4名の男性の内、四名の素性が明らかとなり、裏書きの名前の正確性が高まってきました。(つづく)

(注)
①『鏡ヶ丘百年史』弘高創立百年記念事業協賛会、昭和58年(1983)。
②秋田孝季集史研究会の増田達男氏からの情報による。

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