第3581話 2026/01/16

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (6)

 弘前中学の名物教師、

  天内氏・森氏・菊池氏

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)後列の男性三名の内、裏に書かれた「天内」《男A》と「森」《男B》が、旧制弘前中学校(現青森県立弘前高校)教師の天内兼太郎氏(1885~1985)と森林助氏(1880~1935)であることが判明しました。そうすると、裏書きに名前の記載がない後列右端の男性も弘前中学の教師か関係者ではないかと思い、玉川宏さん(秋田孝季集史研究会・事務局長)から送っていただいた『鏡ヶ丘百年史』(注①)のコピーを精査しました。そうしたところ、「菊池巍」という教師の写真が目にとまりました。

 同誌(217頁)に掲載されている菊池巍(きくち たかし)氏の写真も画質が荒く不鮮明ですが、「記念写真」に見える長身の《男C》と容貌や雰囲気が似ているのです。そこで、WEBで同氏の写真を探したところ、「近代文献人名辞典(β)」(注②)に顔写真がありました。得られた三枚の写真を見比べると、同一人物と見て良いと思われました。長身で大きな耳と面長の顔、ちょっと気取ったような雰囲気などが共通しており、しかも菊池巍氏も弘前中学の教師であり、天内兼太郎氏(1885~1985)・森林助氏(1880~1935)と一緒に「記念写真」に写っていることも、この推定を強く支持します。

 ちなみに、秋田孝季集史研究会の増田達男さんからご教示いただいた『青森県人名辞典』(東奥日報社、1969年)には次のようにあり、年代的にも「記念写真」に見える他の人物と整合します。

 「菊池 巍(きくち・たかし) 明治九~昭和九(一八七六~一九三四)南津軽郡大光寺村の名門、菊池家の一族健左衛門の長男。東奥義塾に入学したが、卒業にいたらず独学で明治三一年小学校教員検定試験に合格、各地小学校につとめ三四年中津軽郡青柳小学校長となる。その間、研学を怠らず三九年中学校教員検定試験に合格して国漢科の免許状を取得、四○年弘前中学校教諭となる。以来昭和八年末に至るまで、終始同校に勤務した。人格は円満そのもので孜々として生徒を教導、深く敬愛され同校の偶像的存在であった。孤峰と号して漢詩をよくした。没後知友(森林助)の手により、「孤峰遺稿」が刊行された。」※(森林助)は古賀による補記。

 菊池巍氏(1876~1934)も弘前中学の名物教師だったようで、『鏡ケ丘同窓会報』6号(昭和39年・1964年)に掲載された高木直衛氏による「在校時代の思い出」には次のように記されています(注③)。

 「それから、忘れることのできないのは、菊池巍(たかし)先生である。先生は大光寺村の旧家の出で、小学校の先生をしながら国漢の文検をとられた篤学の士である。漢文が特に得意のようだった先生は元来他人を疑うことを好まぬ極く正直なお人柄であった(後略)」

 こうして、「秋田重季氏ら記念写真」に並んで写っている六名の男性の内、五名の素性を確認でき、裏書きの名前の正確性が更に高まりました。(つづく)

[後列]
❶天内兼太郎(1885~1985) 弘前中学教師 《男A》「天内」
❷森 林助 (1880~1935) 弘前中学教師 《男B》「森」
❸菊池 巍 (1876~1934) 弘前中学教師 《男C》不記載
[前列]
❹未 詳                《男D》「和田長三(郎)」
❺秋田重季 (1886~1958) 貴族院子爵議員《男E》「秋田重(季)」
❻綾小路護 (1892~1973) 貴族院子爵議員《男F》「綾小路」

(注)
①『鏡ヶ丘百年史』弘高創立百年記念事業協賛会、昭和58年(1983)。
②WEB辞典『近代文献人名辞典(β)』「菊池孤峰(きくちこほう)、本名:菊池巍」。
③高木直衛(明治四十三年卒)「在校時代の思い出」『鏡ケ丘同窓会報』6号、鏡ケ丘同窓会、昭和39年・1964年。

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