「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (9)
―最後の男性は和田元市氏か―
本シリーズも佳境に入りました。「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に、並んで写っている男性六名中の五名については下記の通りでほぼ間違いないと思われますが、前列左端の坊主頭の若者が同写真裏書きに見える「和田長三(郎)」でよいのか、これが最も重要な調査テーマだからです。なぜなら、これが事実なら、和田家と秋田子爵家とのお付き合いが明治・大正時代に遡ることの証拠写真となるからです。
[後列]
❶天内兼太郎(1885~1985) 弘前中学教師 《男A》「天内」
❷森 林助 (1880~1935) 弘前中学教師 《男B》「森」
❸菊池 巍 (1876~1934) 弘前中学教師 《男C》不記載
[前列]
❹未 詳 《男D》「和田長三(郎)」
❺秋田重季 (1886~1958) 貴族院子爵議員《男E》「秋田重(季)」
❻綾小路護 (1892~1973) 貴族院子爵議員《男F》「綾小路」
※《》内は裏書きの文字。
「東日流外三郡誌」偽作キャンペーンでは、五所川原飯詰の和田家と秋田子爵家との交流は『東日流外三郡誌』(市浦村史版)が刊行され有名になった昭和六十年頃からであり、それまでは無関係と主張してきたからです。和田家文書には、東日流外三郡誌明治写本を書写した和田長三郎末吉(注①)と秋田子爵家との交流が少なからず記されており、偽作論者はそれらの記事を和田喜八郎氏による偽作として退けてきました。しかし、この写真の人物が「和田長三郎」であれば、そうした偽作説を否定する証拠となるのです(和田家では代々の当主が「長三郎」を襲名)。
当写真に見える秋田重季氏や綾小路護氏が当主となり貴族院議員になった時期は大正10年頃であり、また弘前中学の教師に天内兼太郎氏が着任したのが大正9年11月であることからも、この写真の撮影時期を大正10年頃として大過ないと思われます。そうであれば、その頃の和田家の人物は和田長作氏かその息子の和田元市氏(喜八郎氏の父)が相当しますが(注②)、写真の人物が若者であることから、元市氏が有力です。そこで、和田家の仏壇の上に飾られていた元市氏と思われる人物の遺影と比較したところ、次の一致点が見られました。
(a)両写真とも坊主頭である。
(b)遺影の右耳が左耳より明らかに小さい。記念写真では右耳に布のようなものが当てられており、これらは右耳「負傷」の痕跡か。
(c)両写真とも額上の髪の生え際のジグザグが似ている。
(d)両写真とも頭髪前部分中央に丸い凹みのように見える跡がある。
(e)年齢差はあるものの、両写真の顔の輪郭(やや丸顔)が似ている。
以上の共通点に基づき、両写真は同一人物(和田元市氏)の可能性が高いと判断でき、少なくとも別人とすべき理由は見あたりません。何十年と続いた悪意に満ちた偽作キャンペーンにより、和田家は一家離散し、和田元市氏についてのご家族への聞き取り調査は事実上不可能な状況です。残念でなりません。(つづく)
(注)
①和田長三郎末吉(和田末吉。1847~1919)は和田喜八郎氏の曾祖父。息子の長作とともに、虫食いなどで傷んだ「東日流外三郡誌」寛政原本(和田家所蔵副本)の書写を行った。秋田孝季所蔵の正本は火災で焼失していた。この明治期に書写されたものを「明治写本」と古田武彦氏は命名し、和田家文書群の学問的分類を行った。
②和田長作(1874~1940)。和田元市(1900~1981)。