「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (11)
―写真裏書「和田長三(郎)」への疑義―
「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に見える前列左端の坊主頭の若者が、同写真裏書きに見える「和田長三(郎)」である和田元市氏(喜八郎氏の父)であることはほぼ確認できたように思いますが、なお一つの疑問があり、わたしは悩んできました。それは、写真撮影当時の大正10年(推定)、元市氏はまだ21歳であり、父親の長作氏(当時47歳)は健在です。このとき若き元市青年が、はたして和田家当主の「長三郎」を襲名できたのかという疑問です。
そこでまず考えたのが写真裏書きの史料性格です。写真裏書きに見える他の四名の名前、天内・林・秋田重(季)・綾小路が正確であったことから、何らかの関連文書に基づいて書かれたものと考えざるを得ませんから、「和田長三(郎)」もその関連文書に基づいて記されたと考えるのが妥当です。そうでなければ、「和田長三(郎)」ではなく、「和田元市」と書かれたはずですから。また関連文書もなく、写真の人物を見て、これらの名前を書くことはまず不可能でしょう。貴族院子爵議員の秋田重季氏や綾小路護氏だけであれば、全国的な著名人ですから、他の情報に基づき、人物を特定できたかもしれませんが、天内兼太郎氏や森林助氏はわからないのではないでしょうか。
従って、これらの人物名が書かれた資料の存在を疑えないのです。そうすると考えられるのが、同写真の下部が切り取られていることから、この切り取られた部分に人物名が印字されていた可能性が有力であり、それに基づいて裏書きが記され、その後、何らかの事情によりその部分が切り取られたと考えるのが最有力と思われます。この理解が当たっていれば、この写真の撮影時と人物名入り記念写真として焼き増しされた時期は異なると考えることができます。そこで注目されるのが、写真左上の円内にある高齢の人物です。このように集合写真の上部に人物が付加される例は卒業写真などでお馴染みです。集団の記念写真撮影時に欠席した人の写真を付け加えるという手法です。
しかし今回の写真は、東京から津軽に旅行した子爵議員二名が旅館(料亭)の女将や芸妓と手をつなぐという極めてプライベートなものです。従って、円内に「不参加の高齢の人物」写真を付加しているのは、卒業写真などとは全く異なった目的によると考えざるを得ません。そこで、わたしは次のように考えてみました。この写真は秋田重季氏晩年(昭和33年、1958年没)に焼き増しされたもので、その際、上部左の円内に晩年の自らの写真を加え、写真下部の余白部分に参加者の名前を印字した。従って、重季氏晩年であれば元市氏は「長三郎」を襲名していたと考えられ、先にあげた疑問は解消されます。
この推定であれば、同写真とその裏書きの史料状況をうまく説明できます。この仮説の当否を証明する方法もあります。晩年の秋田重季氏の写真を確認することです。この調査のため、秋田家へのアプローチなどを試みてきましたが、今のところ実現できていません。(つづく)