第1136話 2016/02/09

一元史観からの多層的「国分寺」の考察

 肥沼孝治さん宮崎宇史さんと立ち上げた多元的「国分寺」研究サークルですが、肥沼さんが開設された同サークルのホームページは順調にアクセス件数が増えているとのこと。

 そのホームページで肥沼さんが梶原義実さんの「国分寺成立の様相」(『考古学ジャーナル』2月号所収)という論文を紹介されました。同論文の存在は宮崎さんから教えていただいていたのですが、わたしはまだ入手できずにいます。

 肥沼さんの紹介によれば、大和朝廷一元史観に立った国分寺研究ですが、一元史観では説明しきれない様々な考古学的知見が記されているとのこと。わたしも同論文を読んだ上で、改めて論評したいと思います。取り急ぎ、肥沼さんによる紹介文を転載させていただきます。多元的「国分寺」研究はいよいよ面白くなってきました。

〔追記〕本稿執筆後に図書館で梶原義実さんの「国分寺成立の様相」を閲覧しました(最新号のためコピー不可)。各地の国分寺遺跡には白鳳時代の瓦が出土していたり、その下層に堀立柱の遺構があるものがあり、古い寺院があった場所に新たに国分寺が建てられたとする説が紹介されています。しかし、梶原さんの結論としてはそれらは7世紀に遡るようなものではないとする見解でした。従って、わたしたちの多元的「国分寺」説とは真っ向から対立する立場のようです。

【ホームページ・多元的「国分寺」研究サークルより転載】
梶原義実さんの「国分寺成立の様相」論文

宮崎さんのアドバイスもあり,
通説のおさらいにと思って買った『考古学ジャーナル』2月号。
(たった30数ページなのに薄いのに,1700円もする!)
ところが,それに掲載されていた上記の論文がとても刺激的なので,
このサイトで紹介しようと思った次第である。
もちろん通説の立場であるから,九州王朝なんて言葉は出てこないが,
しかしそれだからこそ,「雑念」が入らず読めるのではないかと。

(1)小田富士雄氏によると,西海道の国分寺には,
国分寺の造営にあたって大宰府の影響がきわめて大きかったと論じた。

(2)山崎信二氏は,平城京と国分寺との瓦の同はん関係は,
いまだに確認されていないと指摘した。

(3)1970年台以降,とくに80年代から90年代にかけて,
武蔵・上総・下総・上野・下野など,関東地方の国分二寺を中心に,
伽藍の中枢域(伽藍地)ばかりでなく,周辺域(寺院地)も含めた
広域的な調査がおこなわれるようになった。
須田勉氏は,それらの調査を受け,関東地方の多くの国分寺の造営計画について,
方位の異なる2時期の遺構が検出されることに注目した。(上総国分寺の伽藍変遷図)
さらに造営においては金堂より塔が先行する例が多いこと,
本格的な礎石建の伽藍の下層に,掘立柱建物の遺構が先行
してみられる例が存在することなどから,国分寺の造営計画に変更があったことを指摘した。

これまで多元的「国分寺」研究サークルが考えてきたことに,
まさにぴったり重なる発掘結果というべきではないだろうか。
しかし,この謎は大和一元史観では解けない。
7世紀末までは九州王朝が,8世紀以降は大和政権が,
我が国を代表する主権国家だったとする多元史観をもってして,
初めて解き得る謎(=歴史的真実)なのではないだろうか。

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上記は,朝の忙しい時に入力したもので,電車の中で「これも入れたかった」というものを見つけた。半日立ったが,補足しておきたい。

追伸

(4) 八賀晋氏は,出土瓦について,白鳳期の瓦が一定以上出土する国分寺が多いこと,美濃国分寺などの国分寺の伽藍の下層に,掘立柱建物が確認される事例があることなどを示しつつ,これら古相を示す伽藍配置については,白鳳期以前の氏寺(前身寺院)を改作・拡充整備したものとの見解を著わした。

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