第1142話 2016/02/27

大宅健一郎「STAP騒動の真相」

 「古田史学の会」会員で、多元的「国分寺」研究サークルのサイトを開設され、わたしと共同研究されている東京都の肥沼孝治さんから、ネットサイト「ビジネスジャーナル」に大宅健一郎さんの「STAP騒動の真相」という記事が掲載されていることを教えていただきました。わたしが「洛中洛外日記」で連載した「小保方晴子著『あの日』を再読」と同じ主張が述べられており、意を強くしました。冒頭部分を転載し、ご紹介します。

大宅健一郎「STAP騒動の真相」 2016.02.26

STAP問題の元凶は若山教授だと判明…恣意的な研究を主導、全責任を小保方氏に背負わせ

 「私は、STAP細胞が正しいと確信したまま、墓場に行くだろう」
 STAP論文の共著者であるチャールズ・バカンティ博士は、米国誌「ニューヨーカー」(2月22日付電子版)の取材に対して、こう答えた。2015年にもSTAP細胞の研究を続け、万能性を示す遺伝子の働きを確認したという。
 また、「週刊新潮」(新潮社/2月11日号)では、理化学研究所・CDB(発生・再生科学総合研究センター)副センター長だった故・笹井芳樹博士の夫人が、インタビューにおいて次のように発言している。

「ただ、主人はSTAP現象そのものについては、最後まで『ある』と思っていたと思います。確かに主人の生前から『ES細胞が混入した』という疑惑が指摘され始めていました。しかし、主人はそれこそ山のようにES細胞を見てきていた。その目から見て、『あの細胞はESとは明らかに形が異なる』という話を、家でもよくしていました」

 ES細胞に関する世界トップクラスの科学者である2人が、ES細胞とは明らかに異なるSTAP細胞の存在を確信していたのだ。
 一体、あのSTAP騒動とはなんだったのだろうか――。

ファクトベースで書かれた手記

 小保方晴子氏が書いた手記『あの日』(講談社)が1月29日に発刊され、この騒動の原因が明らかになってきた。時系列に出来事が綴られて、その裏には、関係者間でやりとりされた膨大なメールが存在していることがわかる。さらに関係者の重要な発言は、今でもインターネットで確認できるものが多く、ファクトベースで手記が書かれたことが理解できた。いかにも科学者らしいロジカルな構成だと筆者は感じた。
 しかし、本書に対しては「感情的だ」「手記でなく論文で主張すべき」などの批判的な論調が多い。特にテレビのコメンテーターなどの批判では、「本は読みません。だって言い訳なんでしょ」などと呆れるものが多かった。
 手記とは、著者が体験したことを著者の目で書いたものである。出来事の記述以外に、著者の心象風景も描かれる。それは当然のことだ。特に小保方氏のように、過剰な偏向報道に晒された人物が書く手記に、感情面が書かれないことはあり得ないだろう。それでも本書では、可能な限りファクトベースで書くことを守ろうとした小保方氏の信念を垣間見ることができる。 また、「手記でなく論文で主張すべき」と批判する人は、小保方氏が早稲田大学から博士号を剥奪され、研究する環境も失った現実を知らないのだろうか。小保方氏は騒動の渦中でも自由に発言する権限もなく、わずかな反論さえもマスコミの圧倒的な個人攻撃の波でかき消された過去を忘れたのだろうか。このようないい加減な批判がまかり通るところに、そもそものSTAP騒動の根幹があると筆者はみている。

小保方氏が担当した実験は一部

 STAP騒動を解明するために、基礎的な事実を整理しておこう。
 小保方氏が「STAP細胞」実験の一部だけを担当していたという事実、さらに論文撤回の理由は小保方氏が「担当していない」実験の部分であったという事実は、しばしば忘れられがちである。いわゆるSTAP細胞をつくる工程は、細胞を酸処理して培養し、細胞塊(スフェア)が多能性(多様な細胞になる可能性)を示すOct4陽性(のちに「STAP現象」と呼ばれる)になるところまでと、その細胞塊を初期胚に注入しキメラマウスをつくるまでの、大きく分けて2つの工程がある。
 小保方氏が担当していたのは前半部分の細胞塊をつくるまでである。後半のキメラマウスをつくる工程は、当時小保方氏の上司であった若山照彦氏(現山梨大学教授)が行っていた。
 もう少し厳密にいえば、小保方氏が作製した細胞塊は増殖力が弱いという特徴を持っているが、若山氏は増殖力のないそれから増殖するように変化させ幹細胞株化(後に「STAP幹細胞」と呼ばれる)させるのが仕事だった。つまり、「STAP現象」が小保方氏、「STAP幹細胞」が若山氏、という分担だが、マスコミにより、「STAP現象」も「STAP幹細胞」も「STAP細胞」と呼ばれるという混乱が発生する。
 本書によれば、若山氏はキメラマウスをつくる技術を小保方氏に教えなかった。小保方氏の要請に対して、「小保方さんが自分でできるようになっちゃったら、もう僕のことを必要としてくれなくなって、どこかに行っちゃうかもしれないから、ヤダ」と答えたという。
 この若山氏の言葉は見逃すことはできない。なぜなら、STAP細胞実験を行っていた当時、小保方氏はCDB内の若山研究室(以下、若山研)の一客員研究員にすぎなかったからである。小保方氏の当時の所属は米ハーバード大学バカンティ研究室(以下、バカンティ研)であり、若山氏は小保方氏の上司であり指導者という立場であった。
 当時の小保方氏は、博士課程終了後に任期付きで研究員として働くいわゆるポスドク、ポストドクターという身分だった。不安定な身分であることが多く、日本国内には1万人以上いるといわれ、当時の小保方氏もそのひとりであり、所属する研究室の上司に逆らうことはできなかったのだ。
 この弱い立場が、のちに巻き起こるマスコミのメディアスクラムに対抗できなかった最大の理由である。メディアがつくり上げた虚像によって、まるで小保方氏が若山氏と同じ立場で力を持っていたかのように印象づけられていた。

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