飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(1)
飛鳥宮と藤原宮(京)出土の評制下荷札木簡について、その献上国別と干支木簡の年次別データを「洛中洛外日記」で紹介しましたが、それら大量の木簡が同時代文字史料として戦後実証史学を支えています。すなわち、『日本書紀』の記述は少なくとも天武・持統紀からは信頼できるとする史料根拠として飛鳥・藤原出土木簡群があり、『日本書紀』の実証的な史料批判を可能にしました。
木簡は不要になった時点で土坑やゴミ捨て場に一括大量廃棄される例があり、干支などが記された紀年木簡(主に荷札木簡)と併出することにより、干支が記されていない他の木簡も一定の範囲内で年代が判断できるというメリットがあります。その結果、出土層位の年代判定においても、従来の土器編年とのクロスチェックが可能となり、より説得力のある絶対編年が可能となったため、木簡の記事と『日本書紀』の記事との比較による史料批判(『日本書紀』の記述がどの程度信頼できるかを判定する作業)が大きく進みました。
具体例をあげれば、飛鳥宮の工房という性格を持つ飛鳥池遺跡からは、七世紀後半(主に670~680年代)の紀年木簡が出土しており、わずかではありますが八世紀初頭の「郡・里」(注①)木簡も出土しています。ところが一括大量出土しているおかげで、出土地点(土抗)毎の廃棄年代の編年が成立し、併出した木簡の年次幅が紀年木簡により判断可能となるケースが出てきました。
たとえば奈良文化財研究所の木簡データベースによれば、飛鳥池遺跡北地区の遺跡番号SK1126と命名された土坑から、播磨国宍粟郡からの「郡・里」木簡6点(木簡番号1308 1309 1310 1311 1312 1313)が出土しています。同データベースにはSK1126出土の木簡123点が登録されていますが、その多くは削りくずで文字数が少ないものばかりで、年代の判断が可能なものは「郡・里」制木簡くらいでした。そのため、この土坑を含め飛鳥池遺跡北地区から一括出土した木簡群の年代について次の説明がなされています。
〝北地区の木簡の大半は、2条の溝と2基の土坑から各々一括して出土した。遺構ごとにその年代をみると、2条の溝から出土した木簡は、「庚午年(天智九年=660年)」「丙子年(天武五年=676年)」「丁丑年(天武六年=677年)」の干支木簡を含み、コホリとサトの表記が「評五十戸」に限られる。これは天武末年頃(680年代中頃)以前の表記法。これに対して、2基の土坑は、一つが「評里」という天武末年頃から大宝令施行(大宝元年=701年)以前の表記法で記された木簡を出土し、もう一つは「郡里」制段階(大宝令から霊亀3年以前)の木簡を含む。つまり、年代の違う三つの木簡群に分類できる。〟(注②)
このように、大量に出土した木簡(同時代文字史料)と考古学者による精緻な編年により、それらの内容と時間帯が『日本書紀』の記述に整合しているとして、戦後実証史学では〝近畿天皇家一元史観が七世紀後半頃は実証できた〟と確信を抱いたものと思われます。しかし、出土木簡と『日本書紀』の記述を丁寧に比較すると、そこには大きな齟齬が横たわっています。(つづく)
(注)
①大宝令(701年)から霊亀三年(717年)以前に採用された「郡・里」制による行政区域表記。それ後、「郡・郷・里」制に改められた。
②花谷 浩「飛鳥池工房の発掘調査成果とその意義」『日本考古学』第8号、1999年。