第2400話 2021/03/05

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(3)

石神遺跡の性格が王宮を構成する官衙の一部とされている根拠は出土した遺構の形式と出土木簡の内容に基づいており、市大樹さんは次のように説明されています。

「石神遺跡では飛鳥時代の遺構が何層にもわたってみつかっている。大きくA~Cの三時期に分けられ、さらにそれぞれが細分化されるという複雑なものである。(中略)
このB・C期の新たな建物群は藤原宮(六九四~七一〇)の官衙域の状況と似ており、饗宴施設から官衙へと性格を一変させたとみられる。そして、この見方を確固たるものとしたのが、石神遺跡北方域から出土した三〇〇〇点以上の木簡である。」(『飛鳥の木簡 ―古代史の新たな解明』)89~90頁。(注①)

同遺跡出土木簡に次の二つの「仕丁」木簡があり、注目されています。

○方原戸仕丁米一斗

○委之取五十戸仕丁俥物□□
二斗三中神井弥[  ]□(三カ)斗

「方原(かたのはら)」は後の三河国宝飫郡形原郷、「委之取五十戸(わしとりのさと)」は三河国碧海郡鷲取郷のことで、そこから出仕した二人の「仕丁」、「俥物□□」と「神井弥□□」に支給した食料が記された木簡です。仕丁とは律令に規定された役務者のことで、全国の各里(五十戸)から二名の出仕が定められています。これは、飛鳥に全国から仕丁が集められたことを意味します。すなわち、飛鳥に〝中央行政府〟があったことをも意味しています。

更に七世紀(評制下)の官職名が記された次の木簡・土器が飛鳥宮(石神遺跡)・藤原宮地区から出土しています。

◎「大学官」「勢岐官」「道官」 石神遺跡(天武期)
○「舎人官」「陶官」 藤原宮跡大極殿院北方(天武期)
○「宮守官」 藤原宮跡西南官衙地区(持統・文武期)
○「加之伎手官」(墨書土器) 藤原宮跡東方官衙北地区(持統・文武期)
○「薗職」 藤原宮北辺地区(持統・文武期)
○「蔵職」「文職」「膳職」 藤原宮跡東方官衙北地区(持統・文武期)
○「塞職」 藤原宮跡北面中門地区(持統・文武期)
○「外薬」 藤原宮跡西面南門地区(持統・文武期)
○「造木画処」 藤原宮跡東面北門地区(持統・文武期)

これらの官職名により、石神遺跡が七世紀における王宮を構成する官衙の一部と理解されたわけですが、わたしには違和感がありました。それは、木簡などの官職名に「二官八省」(神祇官・太政官・中務省・式部省・民部省・治部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)のような〝中央省庁〟らしい名称が見えないことです(注②)。たまたま出土していないという可能性もあり、断定はできませんが違和感を禁じ得ません。

他方、大宝元年(701年)の王朝交代後の藤原宮(京)出土木簡には次の〝中央省庁〟名が見えます(注③)。

○「宮内省移 価糸四□」
「大宝二年八月五日少□□
中務省移[ ]□(勘カ)宣耳」
木簡番号1482 藤原京左京七条一坊西南坪

○「中務省□(移)カ」
木簡番号1747 藤原京左京七条一坊西南坪

○「中務省牒□(留カ)守省」
木簡番号0 藤原宮跡内裏東官衙地区

○「中務省移」
「□○  ○□□(和銅カ)」
木簡番号1093 藤原宮跡内裏北官衙地区

○「中務省使部」
木簡番号18 藤原宮跡北面中門地区

○「中務省 管内蔵三人」
木簡番号17 藤原宮跡北面中門地区

○「粟田申民部省…○寮二処衛士」
「検校定○十月廿九日」
木簡番号1079 藤原宮跡東方官衙北地区

上記の他にも、各省直属の官職名が記された木簡が藤原宮(京)跡から出土しています。このような七世紀(評制下)と八世紀(郡制下)における差異が王朝交替の影響によるものか、それとも偶然なのか、出土木簡の情報だけでは断定できません。

ここからはわたしの作業仮説(思いつき)ですが、評制下の飛鳥宮地区には〝中央省庁〟の出先(下部)機関はあったが、〝中央省庁〟そのものはなかったのではないか、そして王朝交代後の藤原宮(京)に至って、近畿天皇家は〝中央省庁〟を置くことができたのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①市 大樹『飛鳥の木簡 ー古代史の新たな解明』中公新書 2012年。
②『大宝律令』に先立つ浄御原令制下の官庁名は「○○官」と称されており、大宝令の名称とは異なると考えられている。しかし、それにしても〝中央官庁〟に匹敵する官職名を記した評制下木簡は知られていないようである。
③奈良文化財研究所木簡データベース「木簡庫」による。

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