第2431話 2021/04/11

百済人祢軍墓誌の「日夲」について (4)

 正木さんからのメール、「字体の変遷」

 石田泉城さんの「『祢軍墓誌』を読む」(注①)に触発されてスタートした本シリーズですが、それを読んだ正木裕さん(古田史学の会・事務局長)よりメールが届き、貴重な情報をご教示いただきました。

 『大辞林』の「六書と書体の変遷表」によれば、六朝・北魏・隋唐では「本」の楷書は「夲」となっており、藤原宮木簡の「夲位進第壱・・」や井眞成墓誌が「・・公姓井字眞成國號日夲」とあるのは当然とのことなのです。つまり、「夲」が「本」の「代わり」に通用していたのではなく、「六朝・北魏・隋唐時代は『夲』の字体が正しかった」のであり、当然、当時の倭国でも「夲」が用いられていたということでした。

 わたしはこうした中国での字体の変遷を知りませんでしたので、正木さんからのメールを拝見し、「ああ、そうだったのか」と腑に落ちました。というのも、北魏から隋唐時代の字体調査を行ったとき(注②)、専門書に掲載された当時の金石文や拓本を少なからず見たのですが、それらには「夲」の字体が普通に使用されており、むしろ「本」を見た記憶がなかったからです。国内の木簡調査でも同様でした。そのため、慎重な表現ではありますが、「その当時の国名表記の用字としては、『日夲』が使用されていた可能性の方が高いとするのが、日中両国の史料事実に基づく妥当な理解ではないでしょうか。」(注③)としたわけです。

 この度の正木さんからのメールにより、拙稿での結論が漢字学における字体の変遷研究結果と同じであったことを知り、わたしの推定が的外れではなかったことに自信を得ました。そうすると、「夲」が「本」に戻った時代とその理由についても知りたくなりましたが、漢字学の世界では既に研究済みのことかもしれません。この点、何かわかりましたら報告します。最後に、ご教示いただいた正木さんに感謝いたします。(おわり)

(注)
①石田泉城「『祢軍墓誌』を読む」『東海の古代』№248、2021年4月。
②古賀達也「洛中洛外日記」2090~2105話(2020/02/25~03/07)〝三十年ぶりの鬼室神社訪問(1)~(10)〟
古賀達也「洛中洛外日記」2099~2102話(2020/03/03~06)〝「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(1)~(4)〟
古賀達也「洛中洛外日記」2106(2020/03/11)〝七世紀の筆法と九州年号の論理〟
③古賀達也「洛中洛外日記」2428話(2021/04/10)〝百済人祢軍墓誌の「日夲」について (2)〟

百済人祢軍墓誌

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