第2539話 2021/08/15

太宰府出土、須恵器と土師器の話(4)

 七世紀における須恵器杯Bの発生と増加の背景に、机で執務・食事をする律令制官僚群の誕生があったとする作業仮説をわたしは抱いていますが、このことを九州王朝説の視点から考察すると次のようになります。

(1) 九州年号の倭京元年(618年)に筑後から太宰府に遷都した多利思北孤の時代は全国統治の初期段階と考えられ、太宰府官衙に机で執務・食事する国家官僚群が配置・増員された。
 これに対応するように牛頸窯跡群から官僚用食器として須恵器杯Bの製造と供給が開始された。同窯跡群の生産活動が六世紀末から七世紀初頭にかけて急増するという考古学的出土事実がある。
 従って、杯Bの発生は七世紀中葉頃と考えている。以前、わたしは北部九州での杯B発生を七世紀初頭と考えていたが(注①)、それでは通説との乖離が大きくなり、やや早すぎると思われることもあって、「中葉頃」とする表現がより適切と現時点では考えている。七世紀中葉(約634~666年)の内のどの時期が有力かは、まだ確定できていない。

(2) 九州王朝(倭国)の律令制による全国統治が進むにつれ、七世紀中葉~後葉にかけて各地に国衙・評衙が造営され、地方官僚の配備と地方長官の派遣が始まる。それに伴って杯Bが各地に伝播し、七世紀第3四半期頃には各地で杯Bが一斉に普及し始める。その痕跡として、660~670年頃の遺跡層位から杯Bが出土し始める。なお、この出土事実と『日本書紀』に基づいて飛鳥編年は作られた。

(3) 七世紀中頃には評制による本格的な全国統治体制が確立し始める(注②)。九州年号の白雉元年(652年)には、全国統治拠点として、巨大な難波複都(前期難波宮と条坊都市)が完成する。そこで執務する数千人に及んだであろう国家官僚のために、陶邑窯跡群(堺市)でも杯Bの製造が始まり、難波京や周辺各地に供給された。
 前期難波宮整地層からは杯Bの出土は見られず(注③)、前期難波宮の活動時期の層位から杯Bの出土がみられる事実は、この仮説に対応している。すなわち、それまでの近畿地方には杯Bを必要とするような律令制国家官僚群は存在していなかった(倭国の都は近畿地方になかった)。

 九州王朝説に立てば、以上のような解釈(歴史理解)が可能です。すなわち、須恵器杯Bや律令制国家官僚群は、七世紀の中葉頃、九州王朝(倭国)の都(太宰府)にて、他に先駆けて成立したとする仮説です。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1214話(2016/06/21)〝「須恵器杯B」発生の理由と時期〟において、次のように述べていた。
〝わたしは大阪歴博の考古学者の7世紀の難波の土器(須恵器)や瓦(四天王寺創建瓦:620年頃と展示。『二中歴』にも「倭京二年(619)の創建」と記されており、歴博の展示と一致)の編年は正確であると支持していますが、須恵器杯Bの発生について、九州王朝(北部九州、大宰府政庁1期下層出土など)において7世紀初頭頃と考えています。〟
②古賀達也「古田先生との論争的対話 ―「都城論」の論理構造―」『古田史学会報』147号、2018年8月
③前期難波宮水利施設造成時の客土層から出土した大型の〝杯Bの蓋〟(1点)について、江浦洋氏(大阪府文化財センター次長)は「普通の杯Bよりも大きめの坏で、いわゆる杯Bの範疇外」と筆者からの質問に返答された(2017年1月、「古田史学の会」新春古代史講演会にて)。
 また、佐藤隆『難波宮址の研究 第十一 前期難波宮内裏西方官衙地域の調査』(2000年3月、大阪市文化財協会)にも、前期難波宮整地層から須恵器杯Bは出土していないとされている。
 他方、小森俊寬『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 ―日本律令的土器様式の成立と展開、七~十九世紀―』(京都編集工房、2005年11月)において、前期難波宮整地層からの出土とされた杯Bは、いずれも後期難波宮整地層からの出土であり、前期難波宮整地層出土としたのは小森氏の誤認であることをわたしは次の論稿で指摘した。
○古賀達也「前期難波宮『天武朝造営』説の虚構 ―整地層出土「坏B」の真相―」『古田史学会報』151号、2019年4月。
○古賀達也「洛中洛外日記」1823~1839話(2019/01/12~02/17)〝難波宮整地層出土「須恵器坏B」の真相(1)~(5)(補)〟

フォローする