第2548話 2021/08/23

「あま」姓の最密集地は宮崎県(4)

 宮崎県に集中分布する「あま」姓と「阿毎多利思北孤」(『隋書』イ妥国伝)の「阿毎」との〝一致〟、それと「あま」姓最密集分布地域(西都市・他)と九州最大の西都原古墳群の地域が重なるという二つの事実により、「阿万」「阿萬」姓の分布状況が古代の九州王朝に由来するとしたわたしの仮説は、更に傍証を得て有力仮説となるのですが、その傍証について説明します。
 わたしが白石恭子さん(古田史学の会・会員、今治市)からのメールで、「阿万」「阿萬」姓が宮崎県に濃密分布していることを知ったとき、文献史学と考古学の二つの研究が真っ先に脳裏に浮かびました。その一つは、西井健一郎さん(古田史学の会・前全国世話人、大阪市)の論稿「新羅本紀『阿麻來服』と倭天皇天智帝」(注①)で、『三国史記』新羅本紀の文武王八年(668年)条冒頭に見える記事「八年春、阿麻來服。」の「阿麻」を、白村江戦(663年)で敗北した九州王朝(倭国)の元天子とする仮説です。もう一つは、近年、韓国から発見が続いた前方後円墳の形状が宮崎県西都市やその近隣の前方後円墳とよく似ているという考古学的事実でした(注②)。
 まず西井さんの研究により、『三国史記』の不思議な記事〝阿麻が新羅に来て、服した〟のことがずっと気になっていました。「阿麻」という名前はいかにも倭人の名前らしく、九州王朝の王族に繋がる有力者ではないかと考えていたのです。
 また、韓国で発見された前方後円墳(注③)の形状は〝前「三角錐」後円墳〟とも言いうるもので、方部頂上が三角錐のようにせり上がっており、この特異な形状の古墳が宮崎県にも分布(注④)していることから、韓国で前方後円墳を造営した勢力と南九州(宮崎県)の勢力とは関係があったのではないかと考えてきました。
 この一見無関係に見える事象、『三国史記』の「阿麻來服」と韓国・宮崎の前「三角錐」後円墳とが、宮崎県西都市を中心とする「阿万」「阿萬」姓の分布事実が結節点となり、「あま」姓を名のる九州王朝(倭国)の支族が、宮崎県(日向国西都原)と韓国(恐らく任那日本府を中心とする領域)に割拠し、独特の前方後円墳(前「三角錐」後円墳)を造営したとする仮説へと発展しました。
 白石さんから届いたメールをヒントに、南九州と韓半島を結ぶ九州王朝史の一端に迫る仮説を提起したのですが、はたしてこの仮説が歴史の真実に至るものかどうか、皆さんのご判断に委ねたいと思います。(おわり)

(注)
①西井健一郎「新羅本紀『阿麻來服』と倭天皇天智帝」『古田史学会報』100号、2010年10月。
②古賀達也「前『三角錐』後円墳と百済王伝説」『東京古田会ニュース』167号、2016年4月。
 古賀達也「洛中洛外日記」1126話(2016/01/22)〝韓国と南九州の前「三角錐」後円墳〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1127話(2016/01/23)〝百済王亡命地が南郷村の理由〟
③韓国の代表的な前方後円墳として月桂洞1号墳(光州広域市光山区)がある。全長は36.6m(推定復元45.3m)、後円部の高さ4.8m(推定復元6.1m)、方部の高さ4.9m(推定復元5.2m)。造営年代は6世紀前半頃で、九州の前「三角錐」後円墳と同時期。石室の構造には九州系横穴式石室の要素が指摘されている。
④宮崎県西都市の松本塚古墳。墳長104mで、五世紀末から六世紀初頭頃の「前方後円墳」とされている。
 熊本県山鹿市岩原古墳群の双子塚古墳も、墳長102mmの前方後円墳で五世紀中頃の築造と説明されており、その形状が似ている。
 宮崎県児湯郡新富町祇園原古墳群の弥吾郎塚古墳も同様で、墳長94mの六世紀代の「前方後円墳」とされている。『祇園原古墳群1』(1998年、宮崎県新富町教育委員会)掲載の測量図によれば、弥吾郎塚古墳以外にも次の古墳が前「三角錐」後円墳に似ている。
○百足塚古墳 墳長76.4
○機織塚古墳 墳長49.6m
○新田原五二号墳 墳長54.8m
○水神塚古墳 墳長49.4m
○新田原六八号墳 墳長60.4m
○大久保塚古墳 墳長84.0m

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