第1681話 2018/06/02

『論衡』の「二倍年齢」(1)

 今日は久しぶりに岡崎の京都府立図書館に行き、『論衡』と『大載礼記』(新釈漢文大系。明治書院)を閲覧しました。好天に恵まれ、平安神宮の朱の鳥居が青空に映えてとてもきれいでした。
 後漢時代の人、王充の『論衡』は古田先生も度々著書で取り上げられていますから、古田ファンや古田学派の研究者にはお馴染みでしょう。今回、わたしは『論衡』の全容に初めて接したのですが、その目的は後漢代の知識人が二倍年暦や「二倍年齢」についてどのように認識していたのか、あるいはそれらの痕跡が『論衡』にあるのかの調査でした。『論衡』は新釈漢文大系本でも三巻あり、全巻読破は大変でしたが、何とか斜め読みすることができました。
 一読して驚いたのですが、『論衡』中に人の寿命として「百歳」という記述が散見され、一倍年暦を採用していた後漢代でも、人の寿命については「二倍年齢」で表記するケースがあったのかと一瞬勘違いしたほどです。たとえば次のような記事です。

 「百歳の命は、是れ其の正なり。百に満つる能はざる者は、正に非ずと雖も、猶ほ命と為すなり。」(「気寿第四」『論衡』上巻、72頁)
 「正命は百に至って死す。随命は五十にして死す。遭命は初めて気を稟(う)くる時、凶悪に遭ふなり」(「命義第六」『論衡』上巻、100頁)

 しかし、『論衡』の他の具体的な人物の年齢記事を見る限り、一倍年暦に基づく「一倍年齢」と思われ、ここでは王充が当時の人の寿命として「百歳」と記していることを不思議に思いました。いくらなんでも後漢代の人間が百歳まで生きられるとは考えられないからです。しかも『論衡』では特別な長寿記事として「百歳」と記しているわけではありません。それは「一般論」であるかのように「百歳」と繰り返し記されているのです。
 新釈漢文大系の解説によれば、「人間の命は、気の厚薄によって左右されるもので、ふつうの人の(寿)命は百歳をもって正数とすることを、古代の聖王の例を引き論証している。」とあります。(つづく)

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