『論衡』の「二倍年齢」(4)
周代史料に見える二倍年暦による「二倍年齢」表記の「百歳」を、そのまま一倍年暦の「百歳」と王充が誤認していたことを説明しましたが、それでは後漢時代の他の人々は周代史料などに見える「二倍年齢」表記の「百歳」をどのように認識していたのでしょうか。そのことをうかがわせる記事も『論衡』にありましたので、紹介します。
「語に称す、『上世の人は、(イ同)長佼好にして、堅強老寿、百歳左右なるも、下世の人は、短小陋醜にして、夭折早死す。何となれば則ち、上世は和気純渥にして、婚姻時を以てし、人民は善気を稟(う)けて生れ、生れて又傷(そこな)はれず、骨節堅定、故に長大老寿にして、状貌美好なり。下世は此に反す、故に短小夭折し、形面醜悪なり』と。此の言は妄なり。」(「斉世第五十六」『論衡』中巻、1207頁)
世間の人が「大昔の人は身長も高く、体格もよく百歳くらいの長寿で姿も美しいが、後世の人は身長が低く醜悪で早死にする。」などというのは妄言であると王充が批判した記事です。この後、王充は延々と反論を述べ、後世の人の身長が低いということには根拠がなく、また百歳まで生きると主張しています。その反論には論理的な面もありますが、「百歳」まで生きることの理由については説得力ある反論になっていません。
この記事でわたしが注目したのは「大昔の人は身長も高く、体格もよく百歳くらいの長寿で姿も美しいが、後世の人は身長が低く醜悪で早死にする。」という当時の人々の認識です。既に説明したように、当時の人の一般的な寿命は五十歳(随命)と推定されますから、周代史料などに記された「二倍年齢」の「百歳」表記を一倍年齢で理解してしまうと、大昔の人よりも後世(後漢時代)の人の方が「夭折早死」となってしまうわけです。
更に身長も低くなっていると認識されていることも、殷代や周代と後漢代の「尺」単位が変化していることによると思われます。殷の牙尺は一尺約16cm、周代の1尺は約18.4cm、後漢・前漢代は約23cmでとされていることから(異説あり)、たとえば身長160cmの表記は殷代では約「十尺」、周代では約「九尺」、前漢代・後漢代では約「七尺」と表記されますから、「尺」単位の歴史的変遷を知らなければ、大昔(殷代・周代)の人よりも今(後漢代)の人の方が「短小」と誤解されてしまうわけです。
以上のことから、後漢代の人々(知識人)には「二倍年暦」やそれに基づく「二倍年齢」、そして「尺」単位の変化が忘れ去られていたことがうかがえます。周代史料の多くが漢代に集録・編纂されていることを考えると、この誤解と、その結果引き起こされる周代史料への誤解釈や改変が発生しうることに留意した史料批判が必要です。(つづく)