『論衡』の「二倍年齢」(5)
今回初めて『論衡』全文に触れて感じたのが、その行間から強烈な個性がにじみ出ていることでした。おそらく王充自身も強烈な個性の持ち主であったことを疑えません。たとえば孔子や儒家への容赦のない批判、しかも理屈っぽいと思うほど理詰めの論理展開。後漢代という古代中国にこれほど論理的に理詰めで物事を説明しようとする人は珍しいように思います。ある意味ではとても魅力的な人物です。
他方、周代史料などに記された人の寿命「百歳」を王充は額面通り受けとり、「人は百歳(正命)まで生きる」と繰り返し主張するものの、後漢代の一般的な寿命「五十歳(随命)」との落差についての説明は論理的とは言えません。もちろんこの「論理的とは言えません」という批評は、現代日本のわたしの感想ですから、古代中国では別の感覚で受け止められていたことと思います。
それでは、周代史料に見える二倍年暦による「二倍年齢」表記の「百歳」を、そのまま一倍年暦の「百歳」と認識していた王充その人は、何歳まで生きたのでしょうか。『論衡』末尾にある「自紀第八十五」に王充の略歴が王充自身により記されています。
「建武三年、充生る。」(「自紀第八十五」『論衡』下巻、1806頁)
とありますから、王充が生まれたのは建武三年(27)です。没年は『論衡』には記されていませんが、『後漢書』王充伝には永元年間(89〜104)に没したとありますから、没年齢は単純計算で63歳から78歳の間となります。還暦を超えており、当時としてはかなり長生きしたことになります。更に『論衡』「自紀第八十五」には次の記事が見え、これが誤記誤伝でなければ、70歳は越えていたことになります。
「章和二年(88)、州を罷(や)め、家居す。年漸く七十」(「自紀第八十五」『論衡』下巻、1839頁)
ようやく70歳になったと記されていますが、章和二年(88)では62歳ですから、文脈からすると不自然です。
この最晩年の自らを綴った文章は更に続きます。難解な漢文ですので、わかりやすい〔通釈〕を引用します。
「頭髪は白く歯は抜け、月日はどんどんゆき、仲間もいよいよいなくなり、頼みになる者も少なくなった。貧乏で食べてゆけなくなり、愉快な気持ちにもなれない。こよみの数もだんだん進み、庚寅の年(和帝永元二年、西紀九〇)と辛卯の年(永元三年、西紀九一)の界になった。死ぬのはこわいが、わが身はまだ元気にあふれている。そこで『養性の書』十六篇を書いた。気力を養って自分の身体を大切にし、食事を適量にし酒をほどほどにし、眼をつぶり耳をふさいで外界との接触を絶ち、精力を惜しんで気持ちを安定させ、ただ薬を飲んだり、導引法を補助としたりして、生命を延ばせるように、しばらくでも老いないようにと切望している。だがもう手後れで引き返しもならず、書物の中にそのことを書き、後世の者に示すことにした。ただ人の生命だけは、長短の差はあるにしても一定の期間があるし、人間も動物だから、生死に一定の時間がある。年暦が尽きてしまえば、だれがこれを引き留められようか。やはりあの世へいって、消えて土灰となろう。」(「自紀第八十五」『論衡』下巻、〔通釈〕1840〜1841頁)
「七十歳」記事の後に「庚寅の年(和帝永元二年、西紀九〇)と辛卯の年(永元三年、西紀九一)の界になった」という記事が続きます。この年、王充は64〜65歳に相当することから、先の「七十歳」記事はやはり不自然で、誤記誤伝の可能性がうかがわれます。こうした記事から判断すると、王充の没年齢は60歳代後半と見てよいようです。
この最晩年の王充の記事には、自らの寿命が100歳(正命)に至りそうにないことへの王充らしい「解説」が記されています。その場合、自らの「性」が「正」ではないことになりますが、そのことには触れず、「人の生命だけは、長短の差はあるにしても一定の期間があるし、人間も動物だから、生死に一定の時間がある。年暦が尽きてしまえば、だれがこれを引き留められようか」と述べるにとどまっています。人の寿命として「百歳(正命)」を一貫して主張した王充でしたが、その寿命(65〜70歳)は、周代史料に見える「百歳」が「二倍年齢」によることを結果として証明したようです。これからも王充の思想に迫るために『論衡』を再読三読したいと思います。
『論衡』の最後を締めくくった王充の次の言葉を紹介し、本テーマを一旦終わります。
「命以不延、吁嘆悲哉。」〔命以(すで)に延びず、吁嘆(ああ)悲しいか哉(かな)〕(「自紀第八十五」『論衡』下巻、1840頁)