『大戴礼記』の「二倍年齢」
先日、岡崎の京都府立図書館で『論衡』を閲覧したとき、『大戴礼記』(明治書院、新釈漢文大系)も斜め読みしました。というのも、『論衡』は後漢の王充の著作であり後漢代の知識人の認識を調べる上で参考になりましたが、前漢代の知識人の認識についても調べようと思い、『大戴礼記』も閲覧したものです。なお、『大戴礼記』は「だたいらいき」と訓まれています。
『大戴礼記』は前漢の人、戴徳(生没年未詳)が撰したもので、周末、秦・漢の礼の制度や礼家の説を集めたものと同書解題には紹介されています。もと八十篇あったが、現在は四十篇が残されています。同書でわたしが注目したのが、古今の人の人生について述べた次の記事でした。
「中古は男は三十にして娶(めと)り、女は二十にして嫁ぎ五に合するなり。中節なり。太古は男は五十にして室あり。女は三十にして嫁ぐ。」(「本命 第八十」『大戴礼記』514頁)
前漢代ですから一倍年暦による「一倍年齢」が使用されていたことは『大戴礼記』の他の文章からも明らかですが、ここでいう「中古」と「太古」における男女の結婚年齢は注目されます。「中古」の男30歳、女20歳という結婚年齢は「一倍年齢」としては男の30歳が遅すぎるように思われますが、かといって「二倍年齢」とすれば女の20歳は「一倍年齢」では10歳となり、逆に若すぎます。
ところが、「太古」の男50歳、女30歳の結婚年齢は「二倍年齢」表記とすれば、「一倍年齢」の男25歳、女15歳となり、とてもリーズナブルです。従って、『大戴礼記』にいう「太古」とは二倍年暦による「二倍年齢」が採用されていた時代であり、その痕跡がこの記事に残ったものと思われます。従って、この記事の文脈からは『大戴礼記』を篇した戴徳は二倍年暦や「二倍年齢」についての認識がなかったものと思われます。この推定によれば、前漢代の知識人には二倍年暦についての認識が既に失われていたことになりますから、二倍年暦から一倍年暦に変わったのは前漢代よりもかなり昔のことではないでしょうか。漢王朝成立により、その変化が発生したのであれば前漢代の知識人、戴徳がそのことを知らなかったとは考えにくいからです。
そうすると、次に調べるべきは周代と前漢代の間に成立した中国古典となります。機会があればまた京都府立図書館にこもって、「新釈漢文大系」を渉猟(斜め読み)したいと思います。