第2124話 2020/04/03

「大宝二年籍」断簡の史料批判(5)

 延喜二年(902)『阿波国戸籍』に見える長寿者の多さを、二倍年暦を淵源とする「二倍年齢」表記として説明することは困難と一旦は考えたのですが、たとえば同戸籍中に見える「粟凡直成宗」の戸(家族)を精査すると、戸主(粟凡直成宗)の両親(父98歳、母107歳)だけが存在し得ないような長寿であることから、没後も班田没収を避けるため除籍せず、造籍時に年齢加算して登録するという偽籍が為されたと考えざるを得ません。しかし、両親以外の家族の年齢は通常の一倍年暦による年齢構成であることから、何らかの年齢操作が両親を中心に行われたようにも思われます。更に、両親とその子供たちとの年齢も離れすぎており、不自然でした。
 そこで一案として、両親が成人する頃までは「二倍年齢」で年齢表記がなされ、その後は通常の一倍年暦により造籍時に年齢加算登録されたというケースを推定してみました。具体的には次のようです。
 戸主の姉(宗刀自賣。長女か)の年齢が68歳ですから、母の出産年齢は107-68=39歳です。これが「二倍年齢」表記であれば半分の19.5歳であり、初産年齢(長女を出産)として問題ないと思われます。
 次に長女(宗刀自賣)と二人目の子供である長男(戸主)の年齢差が11歳ありますので、やや間が開いているように思われます。そこで、長女の年齢もしばらくは「二倍年齢」で計算されていたと考えれば、その年齢差は5.5歳となり、ややリーズナブルとなります。もちろん両者の誕生の間に兄弟姉妹が生まれていたが、延喜二年の造籍時には亡くなっていたケースもありますので、実際に11歳差だったのかもしれません。
 このような少年期の「二倍年齢」計算による偽籍(年齢操作)を想定すれば、戸主の両親のみの超長寿の説明が一応は可能です。もしそうであれば、両親が幼少期の頃は律令に規定された暦法(一倍年暦)とは別に、古い二倍年暦を淵源とする「二倍年齢」という年齢計算法が記憶されており、阿波地方の風習として存在していたのかもしれません。現代日本でも、わたしが子供の頃には「満年齢」と「数え年齢」が併存していたようにです。(つづく)

【延喜二年『阿波国戸籍』、「粟凡直成宗」の戸】
戸主 粟凡直成宗 57歳
父(戸主の父) 従七位下粟凡直田吉 98歳
母(戸主の母) 粟凡直貞福賣 107歳
妻(戸主の妻) 秋月粟主賣 54歳
男(戸主の息子) 粟凡直貞安 36歳
男(戸主の息子) 粟凡直浄安 31歳
男(戸主の息子) 粟凡直忠安 29歳
男(戸主の息子) 粟凡直里宗 20歳
女(戸主の娘) 粟凡直氏子賣 34歳
女(戸主の娘) 粟凡直乙女 34歳
女(戸主の娘) 粟凡直平賣 29歳
女(戸主の娘) 粟凡直内子賣 29歳
孫男(戸主の孫) 粟凡直恒海 14歳
孫男(戸主の孫) 粟凡直恒山 11歳
姉(戸主の姉) 粟凡直宗刀自賣 68歳
妹(戸主の妹) 粟凡直貞主賣 50歳
妹(戸主の妹) 粟凡直宗継賣 50歳
妹(戸主の妹) 粟凡直貞永賣 47歳
(後略)

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