第2147話 2020/05/07

「大宝二年籍」断簡の史料批判(15)

 わが国最初の全国的な戸籍とされる庚午年籍(670年)造籍時に存在したとされる、年齢が不詳・不審の人々とはどのような人々でしょうか。南部さんが推定された〝親族や故郷から離れていたため、その正確な年齢が不明(本人の申告は信用できない)な人々や、よるべき資料がなかった一般農民〟という理解では、わたしには今ひとつ納得できませんでした。
 そもそも初めての造籍であれば、人々が申告した年齢をとりあえず記す他なく、その年齢が正確か否かなどは、見た目と申告年齢がよほど異なっていない限りわからないのではないでしょうか。更に言えば、造籍にあたり戸籍調査を担当した地方役人にすれば、申告年齢をそのまま上級役人に報告しても何も問題とはならないようにも思います。上級役人も自らが一軒一軒戸別訪問して再確認でもしない限り、その報告を信用する以外ないのですから。
 しかし、「大宝二年籍」にはほぼ十歳ごとの特定年齢にピークが存在していますから、やはり何らかの事情があったと考えざるを得ません。そこで先に述べたように、見た目と申告年齢がよほど異なっているケースを想定するのであれば、その理由があるはずです。例えば、庚午年籍造籍(670年)当時の七世紀後半に至っても、古い「二倍年齢」が採用(併用)されており、その結果、自らの年齢申告に「二倍年齢」を用いた人々がある程度いたのではないでしょうか。
 具体的には、実年齢1歳の赤ちゃんを「2歳」、実年齢2歳の乳幼児を「4歳」、実年齢3歳の幼子を「6歳」と、「二倍年齢」で申告されたケースです。さすがに地方役人も、こうしたケースは不審として、それらの年齢不審の人々を全て「1歳」として登録したとすれば、その庚午年籍(670年)を基本として、32年後の「大宝二年籍」造籍時、あるいはそれまでの造籍時にその間の年数を加算することにより、大宝二年(702年)には33歳のピークが出現するわけです。他のピークも同様の理由により発生したとする解釈が可能です。
 今回わたしが示した、「大宝二年籍」中のピーク発生理由を「二倍年齢」の影響とする作業仮説(思いつき)ですが、これが学問的仮説として成立するかどうかを検証するために、「大宝二年籍」に記された人と年齢について全数精査を試みました。(つづく)

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