『論語』と『風姿花伝』の学齢(1)
先日の「古田史学の会」関西例会で〝二倍年暦と「二倍年齢」の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―〟というテーマで、周代の二倍年暦(二倍年齢)の存在について発表しました。『竹書紀年』『春秋左氏伝』などの周代史料でも、年干支や日付干支などが後代の編纂時(注①)に一倍年暦に書き換えられている可能性について論じました。その上で、周代が二倍年暦であれば、『論語』中の年齢表記も二倍年齢で理解する必要を説き(注②)、例えば次の有名な記事も二倍年齢で読むことで、よりリーズナブルな内容になると指摘しました。
「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず。」(爲政第二)
わたしはこの記事の年齢、特に学齢の開始が「十有五」歳では遅すぎるので、半分の7.5歳であれば妥当と考えています。たとえば現在でも6歳で小学校に入りますし(学に志す)、一昔前は中卒(15歳)で就職(立つ)していました。このように二倍年齢で理解したほうが自らの人生を振り返っても妥当ですし、この拙論に賛同する声もよくお聞きしました。
ところが、奈良大学で日本古代史を専攻されている日野智貴さん(古田史学の会・会員)から、関西例会で次のような鋭いご質問をいただきました。
「周代史料が後に一倍年暦(年齢)に書き換えられたケースがあるとされるのであれば、『論語』のこの年齢表記も後代に書き換えられている可能性がある。従って、人生を年齢別に語った二倍年齢による同類の史料提示が、論証上必要ではないか。」
さすがは大学で国史を専攻されているだけはあって、なかなか厳しい批判です。そこで、日野さんの批判にどのように答えればよいか考えてきたのですが、昨日、能楽・謡曲の勉強のために読んでいた、世阿弥の『風姿華傳』に面白い記事を見つけました。(つづく)
(注)
①『竹書紀年』の出土は3世紀だが、その後、散佚したため、清代において諸史料中に遺る佚文を編纂したものが現『竹書紀年(古本)』である。
②古賀達也「新・古典批判 二倍年暦の世界3 孔子の二倍年暦」『古田史学会報』53号、2002年12月。
古賀達也「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』7集、2004年。
古賀達也「『論語』二倍年暦説の論理」『東京古田会ニュース』179号、2018年3月。