第2831話 2022/09/09

「延喜二年籍」の史料事実と歴史事実

 八王子の大学セミナーハウスで毎年開催されている〝古田武彦記念古代史セミナー〟が、今年も近づいてきました。一昨年は、古代戸籍の二倍年暦についての研究「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」(注①)を発表させていただきました。
 この研究テーマの発端となったのは、古田先生が明らかにされた倭人の二倍年暦(二倍年齢)が日本列島ではいつ頃まで続いたのだろうかという疑問を抱いたことでした。そこで注目したのが「延喜二年阿波国戸籍」に見える超高齢の年齢分布という次の〝史料事実〟でした(注②)。

 【延喜二年阿波国戸籍】
年齢層  男 女 合計  (%)
1~ 10 1 0 1 0.2
11~ 20 5 1 6 1.5
21~ 30 8 15 23 6.6
31~ 40 4 34 38 9.3
41~ 50 8 71 79 19.2
51~ 60 2 61 63 15.3
61~ 70 1 70 71 17.3
71~ 80 8 59 67 16.3
81~ 90 6 34 40 9.7
91~100 5 13 18 4.4
101~110 1 3 4 1.0
111~120 1 0 1 0.2
 合計 50 361 411 100.0

同戸籍は現代の日本社会以上の高齢者分布を示しており、高齢層の寿命はとても十世紀初頭の日本人の一般的な寿命とは考えられません。もちろん〝史料事実〟と〝歴史事実〟とは異なる概念ですから、史料事実をそのまま歴史事実と見なし、別の仮説の根拠とすることは文献史学の学問の方法上できません。
 そこで、わたしはこの超高齢分布戸籍という〝史料事実〟は、二倍年暦を淵源とする二倍年齢の痕跡ではないかと考えました。すなわち、暦法は一倍年暦に変更されても、人の年齢計算は一年で二歳とする古い二倍年齢計算法が阿波国では十世紀時点でも継続採用されていたのではないかと考えたのです。そこで、古田先生が提唱された二倍年暦説を用いてこの〝史料事実〟の解釈を試み、当時の阿波国の人々の二倍年齢使用という〝歴史事実〟を論証しようとしたのです。ところがそれほど単純な問題ではないことがわかりました。(つづく)

(注)
①古賀達也「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」
https://iush.jp/uploads/files/20201126153614.pdf
②平田耿二『日本古代籍帳制度論』吉川弘文館、1986年。

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