第2343話 2021/01/08

古田武彦先生の遺訓(21)

―『史記』秦本紀、百里傒の二倍年齢―

 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の見解のように、東周時代(春秋・戦国期)は有力諸侯がそれぞれ別個の暦法を採用していたのであれば、その痕跡があるのではないかと思い、司馬遷の『史記』(注①)を読み始めました。その結果、「秦本紀」に一倍年暦と二倍年暦(二倍年齢)混在の痕跡を発見しましたので紹介します。
 『史記』の「秦本紀」に百里傒(注②)という人物が登場します。秦の繆(ぼく)公に請われて大夫となって国政をあずかり、秦の勢力拡大に貢献した人物です。後に始皇帝が中国を統一できたのも百里傒の功績に依るところが大きかったと考えられています。その百里傒について次のような年齢記事があります。

 「〔繆公五年〕百里傒は秦から亡(に)げて宛(河南省)に走ったが、楚の里人にとらえられた。繆公は百里傒が賢人であると聞いて、重財を投じてもこれを贖(あがな)いたいと思った。(中略)
 楚人は承諾して百里傒を返した。このとき、百里傒はすでに七十余歳であった。」『中国古典文学大系 史記』上巻、58頁

 こうして百里傒は繆公五年に大夫として仕え、活躍します。そして百里傒が最後に登場するのが、晋討伐に百里傒の子の孟明視が将軍として出陣する場面で、次のように記されています。

 「〔繆公三十二年〕出陣の日、百里傒と蹇叔(けんしゅく)の二人は、出陣する軍にむかって泣いた。」『中国古典文学大系 史記』上巻、61頁

 蹇叔は百里傒の親友で、百里傒の推挙により秦の上大夫に迎えられた賢人です。両大夫の息子たちが将軍として出陣することになり、もう会うことはできないだろうと老人二人が泣いたという場面です。
 これを最後に、「秦本紀」には繆公の発言中に百里傒の名前は挙がるものの、百里傒自身の言行記事としては現れなくなります。ですから、繆公五年のときに百里傒が七十余歳であれば、繆公三十二年には約百歳になっています。しかも息子の孟明視は将軍として活躍できる年齢ですから、もし一倍年齢で百里傒が三十歳のときの子供であれば孟明視は約七十歳ということになり、いくらなんでも将軍として戦場で指揮を執るのは無理ではないでしょうか。二十歳のときの子供であれば、それこそ約八十歳であり、将軍として出陣するのは非常識です。これが二倍年齢であれば、百里傒が繆公に仕えたのは三十代後半となり、本人も息子もリーズナブルな年齢となります。
 このようなことから、百里傒の年齢記事(七十余歳)は二倍年齢表記と考えざるを得ないのです。他方、「秦本紀」全体としては一倍年暦で書かれていることから、二つの暦法が混在していると、わたしは判断しました。
 百里傒が活躍した繆公の時代は、一倍年暦による従来説では紀元前七世紀頃(春秋時代)とされています。また、百里傒は楚の出身とされていますので、『史記』の記事に基づけば、この時代の楚は二倍年暦、秦は一倍年暦を採用していたと考えることができます。もちろん、『史記』の年齢記事・諸侯の在位年数が司馬遷により一倍年暦に改訂されたものであれば、あるいは司馬遷が参考にした元史料が既に一倍年暦に改訂されていた場合には、こうした単純な判断はできません。それでは司馬遷は二倍年暦という暦法や二倍年齢という概念の存在を知っていたのでしょうか。(つづく)

(注)
①野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。
②『孟子』「萬章章句上」には百里奚とある。

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