二倍年齢研究の実証と論証(7)
―菅原道真と讃岐国の二倍年齢―
『延喜二年(902)阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』の超高齢者群の存在理由について、律令に規定された暦法(一倍年暦)とは別に、古い二倍年暦を淵源とする二倍年齢という年齢計算法が阿波地方の風習として存在していたとする仮説が理屈の上では成立しそうなため、そのことを実証できる史料痕跡を探し求めました。そうしたところ、九世紀末頃における二倍年齢の存在を示唆する史料がありました。阿波国のお隣の讃岐国での逸話です。
それは、平安時代を代表する学者・詩人であり、政治家でもあった菅原道真の漢詩「路遇白頭翁」(路に白頭翁に遇ふ)です。道真は仁和二年(886年)から寛平二年(890年)までの四年間、讃岐国司の長官である讃岐守として讃岐で時を過ごしているのですが、それは延喜二年(902年)造籍の十年ほど前ですから、『延喜二年(902)阿波国戸籍』造籍とほぼ同時代です。
『菅家文草』に収録されている「路遇白頭翁」は、讃岐の国司となった道真と道で出会った白髪の老人との問答を漢詩にしたもので、その老人は自らの年齢を「九十八歳」と述べたことから、道真は次のように問います。
「その年で若々しい顔なのはどのような仙術ゆえか。すでに妻子もなく、また財産もない。姿形や精神について詳しく述べよ。」
この問いによれば、都から讃岐に赴任した道真には、道で出会った老人がとても「九十八歳」には見えなかったことがうかがえます。わたしはこの「路遇白頭翁」の年齢記事と延喜二年『阿波国戸籍』の超長寿者を根拠に、九~十世紀の讃岐や阿波には二倍年暦(二倍年齢)が遺存していたとする研究「西洋と東洋の二倍年暦 補遺Ⅱ」を「古田史学の会」関西例会(2003年4月19日)で発表したことがありました。
しかし、この頃の二倍年暦研究は初歩的な段階(高齢者史料の調査収集による実証)でしたので、偽籍の一手段として一倍年暦の『延喜二年阿波国戸籍』に二倍年齢が部分的に〝利用(併用)〟されているとする複雑な認識や論証には、とても思い至ってはいませんでした。すなわち、「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡典嗣先生の言葉を、二十年前のわたしには深く理解できていなかったのです。(つづく)