第1718話 2018/08/05

大行事八幡社の「大化」書写史料

 「洛中洛外日記」1716話(2018/07/29)「大行事八幡社(豊後大野市)の『大化』」で紹介した豊後大野市の大行事八幡社の「大化元年」銘獣像ですが、久留米市の犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)から貴重な情報と史料が送られてきました。今日はわたしの誕生日なのですが、素晴らしいプレゼントとなりました。
 『太宰管内志』(豊後之四・大野郡)には「大行事八幡社ノ社に木にて造れる獣三雙あり其一つの背面に年號を記せり大化元年と云までは見えたれど其下は消て見えず」としか記されていないのですが、犬塚さんは『豊後国志』と『豊後史蹟考』を調査され、その当該部分をお知らせいただきました。いただいたメールを転載します。

【犬塚さんからのメール】
古賀様
 豊後大野市緒方町の大行事八幡社の「大化」年号については、洛中洛外日記でご紹介のあった太宰管内志の他に豊後国志と豊後史蹟考に記載がありますので参考までにご紹介します。
 まず豊後国志(1803年)によれば、「社記曰。孝徳天皇大化元年八月。有降臨之徴。建祠。神前有木造獣三雙。其一雙題紀年於背。大化元年。某月日。文字漫滅。其奇古可信。」
 また豊後史蹟考(1905年)は、「大行事八幡社 緒方郷今山村に在り、孝徳天皇大化元年八月の創建にして古昔は、本郡緒方郷二十四ヶ村の鎮守とし、社坊八ヶ寺を置き、毎歳八回の大祭を行ふを例とす、乃て大行事と称すと云ふ、天正中、兵火の為め、社殿旧記悉く烏有に帰したるも、今尚ほ三雙の木造獣を存し、其中一雙の底部には『大化元十一月十八日』の文字を刻し、一雙には豊後国緒方今山大行事神前応永三十一年甲辰秋大願主云々と記し、今一雙のものには題書なし」として、底部に大化元年の文字を刻した木造獣の図を掲げています。(別添ファイル参照)
 干支がないため倭国年号であるとの判断は難しいようです。干支は最初から書かれていなかったのか消えてしまったのか、またこの図が、いつ頃誰によって描かれたのかについてはなにも記載がありません。
 ところで、「大化」年号と地名の関係ですが、「角川日本地名辞典44 大分県」に次のような記載がありました。
 「たいか 大化〈緒方町〉 大野川の支流緒方川下流右岸の丘陵地帯に位置する。地名は大行事八幡の木造獣に大化元年の銘文があることによる。」
 やはり年号と関係があったようです。
 さて、「大化」年号ですが、九州には長崎県を除く各県の史料に存在しますが、倭国年号である可能性があるのは、今のところ宮崎県日南市の駒宮神社の縁起に見えるものだけのようです。
 日向地誌(1929年)に「社記云文武天皇ノ大化元年乙未創建シテ神武天皇ヲ祭ルト」とあり干支が一致しますので、倭国年号の大化元年乙未(持統天皇十年)(695年)と考えて間違いないと思われます。
(1927年の宮崎県史蹟調査は、文武天皇の時代には大化という元号がないこと、また孝徳天皇の大化元年としても干支が合わないことから、元年とは文武天皇元年であり「最初建立者、文武天皇元年丁酉」とした元禄二年の棟札の記載が正しいとし、縁起にある大化元年乙未を誤りとしている。)
 以上、「大化」年号に関する情報です。
 久留米市 犬塚幹夫
【転載おわり】

 この報告によりますと、江戸時代には「大化元 十一月十八日」と彫られた獣像が存在していたわけですから、今も残されている可能性がありそうです。木製ですから放射性炭素同位体年代測定で分析すれば、7世紀頃のものかどうかぐらいは判明するのではないでしょうか。もし同時代のものであればこの「大化」は同時代九州年号史料とみて問題ないと思います。

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