三十年ぶりの鬼室神社訪問(8)
鬼室集斯墓碑江戸期偽造説を見事に否定された胡口康夫さんご自身は「鬼室集斯墓碑をめぐって」(『日本書紀研究』第十一冊、1979年)において、同墓碑は「平安時代中期以降のある時期」に鬼室集斯の子孫たちにより「小野で造立された」とされ、「平安時代後期から鎌倉時代後期の可能性がかなり高いものとしてさほど誤りはないのではなかろうか」と結論付けられました。
その根拠として、同墓碑のような八面体の造形が現れたのが平安時代後期を上限として、鎌倉時代後期には石造の八面体の造形が確立していることや、「朱鳥三年戊子」のように干支(戊子)を小文字で横書きにする最古の例が天慶九年(946)であり、鎌倉時代にもっとも多く普通になり、次の南北朝・室町時代になると少なくなることを示されました。
ところが、『近江朝と渡来人―百済鬼室氏を中心として』(雄山閣刊、1996年)に収録された新しい論文「鬼室集斯墓碑再考Ⅱ―筆跡から見た墓碑―」において、造立時期が古代まで遡る可能性を示唆されたのです。墓碑造立時期が古代まで遡る可能性の根拠として、墓碑の「室」の筆跡に胡口さんは着目されました。
碑文の「室」という字のウ冠の第二画が筆を勢いよく抜き先端が細く尖った「撥(はね)形」になっていることを指摘され、これは古代に多くみられる筆跡であることから、現地の金石文調査や古代金石文との比較調査を精力的に行われました。その結果、日野地域に存在する中近世金石文には「撥形」がほとんど見られず、逆に国内各地に存在する古代金石文に多く見られる傾向であることを確認されたのです。そしてその結論として、自説の鬼室集斯墓碑の平安後期から鎌倉後期造立説に加えて、「筆跡から考察すると造立年代を古代にまで遡らせる可能性があながち否定できない」とされるに至ったのでした。
この新視点は画期的です。わたしは論理上から同時代金石文と見て問題ないと考えたのですが、胡口さんの筆跡研究による新視点は、同碑を古代墓碑と見るべきという積極的論点だからです。実証的研究を重視される胡口さんならではの研究成果と言えそうです。(つづく)