第2101話 2020/03/05

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(3)

 七世紀当時の九州王朝公認筆法の「撥(はね)型」は、いつ頃どこから伝わったのかを調べるために、『書道全集』の「第五巻 中国・六朝」「第七巻 中国・隋、唐Ⅰ」(平凡社、昭和30年)を見てみました。
 本調査に当たり、わたしは九州王朝は中国南朝の冊封を受けた時代が長いことから、筆法も南朝の影響を受けているのではないかと推定し、六朝時代から調査を始めたのですが、結論からいえば「撥型」は隋代に集中して出現していました。もっとも、『書道全集』という限定された史料対象から得た「結論」ですから、現時点での理解といわざるを得ませんが、とても興味深い現象でした。
 『書道全集』「第七巻 中国・隋、唐Ⅰ」に見える「撥型」の文字は次の史料に散見されました。JISコードにない旧字体は新字体に改めましたが、「撥型」調査結果には影響しません。

○『佛説月鐙三昧経』「大隋開皇九年」(589)
 「受」

○『大智度論 巻六十二』「開皇十三年」(593)
 「受」「帝」「當」「憂」「常」

○『大方等大集経 巻第廿』「大隋開皇十五年」(595)
 「宀/之」 ※「宀」の下に「之」。

○「美人董氏墓誌」「開皇十七年」(597)
 「宣」「婉」

○「龍山公墓誌」「開皇二十年」(600)
 「帝」「字」「※旁/衣」「官」「宗」「家」 ※「旁」の「方」を「衣」とする字。

○『大般涅槃経 巻第十七』「仁寿三年」(603)
 「當」

 以上の隋代史料に集中して「撥型」が見られましたが、中には判断に迷う字形や、明らかに「撥型」とは異なる字形が混在しているケースもあります。
 他方、大業年間以降(605年~)になると「撥型」が見えなくなり、下記の例のように「押型」など他の筆法に変化しています。これも限定された史料による判断ですから、隋代の一般的字形変遷と断定できませんが、不思議な傾向です。

●『大般涅槃経 巻第卅七』「大業四年」(608)
 「蜜」「受」「割」

●『賢劫経 巻第一』「大業六年」(610)
 「宿」「常」「安」「諦」「學」「當」「家」

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