「九州王朝律令」儀制令の推定(2)
九州王朝が木簡への年号使用を規制していたとわたしは推定していますが、その律令の条文は『大宝律令』に受け継がれたと考えています。従って、九州王朝律令の「儀制令」にも「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)のような条文があったのではないでしょうか。そうしますと、「公文」の範囲を「式」(条令)で指定し、そこに指定された「公文」に九州年号が使用されたと推定しています。
それでは「九州王朝律令」で九州年号の使用が許された「公文」などの範囲について、史料事実に基づいて推定してみます。まず、後代にまで残すことが前提である墓碑銘の没年などについては60年毎に廻ってくる干支表記では不適切ですから、九州年号の使用が認められたと思われます。その史料根拠としては「白鳳壬申年(672)」骨蔵器、「大化五子年(699)」土器(骨蔵器)、「朱鳥三年(688)」鬼室集斯墓碑があげられます。法隆寺の釈迦三尊像光背銘の「法興元卅一年」もその類いでしょう。
戸籍や公式の記録文書には当然と思われますが九州年号が使用されたのは確実と思います。その根拠は『続日本紀』に記された聖武天皇の詔報とされる次の九州年号記事です。
「白鳳以来朱雀以前、年代玄遠にして尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一に見名を定めてよりて公験を給へ」『続日本紀』神亀元年(724)十月条
これは治部省からの諸国の僧尼の名籍についての問い合わせに対して、聖武天皇の回答です。九州年号の白鳳(661-683年)から朱雀(684-685年)の時代は昔のことであり、その記録には粗略があるので、新たに公験を与えよという「詔報」です。すなわち、九州王朝時代の僧尼の名簿に九州年号の白鳳や朱雀が記されていたことが前提にあって成立する問答です。従って、九州王朝では僧尼の名簿や戸籍などの公文書(公文)に九州年号が使用されていたことが推定できるのです。
こうした公文書には年次記録が必要ですし、60年を超える長期保管が必要な書類であれば、干支だけではなく年号表記が必要であることは当然と思われます。たとえば「庚午年籍」は『養老律令』においても永久保管が命じられていますから、いつの庚午の年かを特定できるように年号(「白鳳十年」、670年)が付記されていたと推定できるのです。
以上のように、「九州王朝律令」には年号使用を定めた儀制令があり、その運用が「式」などで決められていたと推定できるのですが、本格的な研究はこれからです。