「宇佐八幡文書」の九州年号
正木裕さんが『日本書紀』史料批判の新手法「34年遡上説」を駆使して、九州王朝史の解明に果敢に取り組んでおられることは、何度も紹介してきたところですが、わたしも20年以上前から九州王朝系史料の探索と分析により、九州王朝史復元に取り組んできました。中でも、「宇佐八幡文書」中に多くの九州王朝系伝承が含まれていることに気づき、一部は研究論文として発表してきましたが、大部分は史料批判や分析が困難で、未発表のままとなっています。そこで、その未発表史料について紹介し、古田学派研究者による解明や作業仮説の提起を促したいと思います。
「宇佐八幡文書」や京都の「石清水八幡文書」に共通して見える不思議な伝承記事があります。それは、九州年号の「善記元年(522)」に八幡大菩薩が唐(当時は南朝の梁か北朝の魏)から日本に帰ってきて、その後生まれた四人の子供たちとともに日本を統治した、という伝承です。たとえば次の通りです。
「香椎宮縁起云、善記元年壬寅、従大唐八幡大菩薩日本還給」
「又善記元年記云、大帯姫従大唐渡日本」
(『八幡宇佐宮御託宣集』第一巻)
「善記元年壬寅、従大唐八幡大菩薩(私云、香椎御事也、)渡日本」
(『八幡宇佐宮御託宣集』第十五巻)
「以善記元年壬丑(寅の誤写か:古賀)、従大唐八幡大菩薩日本渡給」
(『石清水八幡宮史料叢書』2、高橋啓三編)
わたしの知るところでは、以上の「八幡宮史料」にこの伝承記事が見えるのですが、その内容から北部九州(香椎宮)が舞台であり、「八幡大菩薩」と称される人物が「唐」より帰国して、日本の統治者になったというものです。おそらくは弥生時代の人物「大帯姫」の伝承と混同されて伝わった史料もありますが、九州年号「善記元年(522)」の事件として記録されていますから、「八幡大菩薩」が九州王朝の王であれば、当時の倭王「筑紫君磐井」その人の伝承と考えるべきかもしれません。
史料的限界があり、決定的な論証は今のところ困難ですが、もし筑紫君磐井の伝承であれば、磐井は「唐(梁か北魏)」から帰国し、倭王に即位して、九州年号を「継体」から「善記」に改元したことになります。引き続き史料探索を進め、仮説を構築する必要があります。それにしても、不思議な伝承記事です。