「新羅人来たりて、
筑紫より播磨を焼く」
今日は仕事で名古屋に来ましたので、「古田史学の会・東海」の林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人)と栄で夕食をご一緒し、古代史研究について意見交換しました。
林さんは九州年号研究に精通されており、話題も『二中歴』「年代歴」に見える九州年号の細注についてでした。林さんから、九州年号「蔵和」(559〜563)の細注「此年老人死(此の年老人死す)」の老人とは「老人星」(南極老人星。カノープス・りゅうこつ座のα星)と関わりがあるのではないかとの考えが示されました。わたしは福岡県の「老司」という地名(九州王朝の役職・役所名か)と関係があるのではないかと考えていますが、まだよくわかりません。
同じく九州年号「鏡當」(581〜584)の細注「新羅人来従筑紫至播磨焼之(新羅人来たりて、筑紫より播磨に至り、之を焼く)」の記事から、新羅の侵攻目標は九州王朝や近畿天皇家ではなく、瀬戸内海や播磨方面(吉備や丹波)の権力者ではなかったかと、林さんは指摘されました。
当時の日本列島の最高権力者は九州王朝(倭国)なので、それに匹敵する権力者(王朝)が吉備や丹波地方にあったとする見解には賛成できないと、わたしは返答したのですが、それならば何故新羅軍が関門海峡を突破し、わざわざ播磨まで侵攻する必要があったのかという疑問が残ります。九州王朝との交戦であれば、博多湾に上陸するか、関門海峡を突破できたのなら豊前に上陸すれば良いように思われるからです。
鏡當年間(581〜584)では、まだ難波副都造営(652年、九州年号の白雉元年)の70年前ですから、難波副都攻撃ということも考えられません。この新羅人による播磨侵攻説話は当地の伝承や様々な史料に見え、歴史事実と考えられますが、その背景や軍事目的がよくわかりません。そもそも関門海峡を突破した新羅軍が播磨まで侵攻して、その後どうやって帰国するつもりだったのでしょうか。不思議です。何か良い仮説やアイデアはないでしょうか。
(追記)わたしはこの新羅軍の侵攻は、新羅が近畿天皇家と内通して実施したもので、筑紫から播磨を攻撃した後、近畿天皇家の領域である難波に到着する作戦計画ではないかと考えたこともありました。もちろんこれは単なる「思いつき」にすぎず、まだ史料根拠などを伴う学問的仮説ではありません。