第501話 2012/12/06

『風土記』の中の短里

 昨日は曇天と雨の中、富山県魚津市に行ってきました。今日は大阪に来ています。午前中はお得意さまと新規開発案件や輸出等の商談、午後は学会(繊維応用技術研究会)に出席しています。
 この繊維応用技術研究会は「繊維」の学会なのですが、天然繊維・合成繊維のほか、毛髪・ナノファイバー・木材繊維・染色・染料・酵素・化粧品・機能性色 素など幅広い分野に関する研究発表や講演があり、異業種交流の場としても人気の高い学会です。わたしはこの学会の理事として、運営のお手伝いをさせていた だいています。

 さて、日本列島内での短里使用の時期についての正木裕さんとの意見交換ですが、最終的には七世紀末まで九州王朝では公的に短里が使用され、大和朝廷の時代となった八世紀でも短里使用の影響が残存した地域があったとする見解で一致をみました。
 具体的には、八世紀に成立した『風土記』の中に短里と考えざるを得ない記事があることが根拠です。古田先生の名著『よみがえる卑弥呼』(ミネルヴァ書房より復刻)に詳述されていますが、一つだけ紹介しますと、『肥前國風土記』に次の記事が見えます。

 「肥前国風土記に云う。松浦の県。県の東、六里。ヒレフリの岑有り。」(岩波古典文学大系『風土記』による)

 松浦の県(あがた)の東「六里」のところにヒレフリの岑があるとされているのですが、底本には「三十里」とされているの を、岩波本の編者は「六里」に原文改訂しているのです。『風土記』成立時の八世紀では1里約535mですので、これではヒレフリの岑までの実測地とはあわ ないので、底本の「三十里」を「六里」に原文改訂したのです。
 この『風土記』は行政単位が「郡(こおり)」ではなく、九州王朝の行政単位「県(あがた)」であることから、古田先生は「県(あがた)風土記」と命名さ れ、原本は九州王朝で成立したものとされました。すなわち、九州王朝では短里で『筑紫風土記』を編纂したと考えられるのです。その九州王朝『筑紫風土記』 に基づいて、大和朝廷の時代となった八世紀においても「短里」表記が転用されたのです。
 こうした史料根拠に基づき、古田先生は日本列島における短里使用の史的痕跡が「二~三世紀頃より八世紀初に及んでいる。」(『よみがえる卑弥呼』194頁)とされたのでした。(つづく)

(補記)
 『日本書紀』天武十年八月条に見える「多禰嶋に遣(まだ)したる使人等、多禰國の図を貢れり。其の國の、京を去ること、五千余里。筑紫の南の海中に居り。」の記事の「五千余里」を短里表記とする見解について、第500話で 「どなたが最初に発表されたのかは失念しました」と記したところ、正木裕さんから、中村幸雄さん(故人・「古田史学の会」元全国世話人)が発表された説で あることを教えていただきました。出典は「大和朝廷の成立と薩摩及び薩南諸島の帰属」(『南九州史談』五号、1989年)で、当ホームページ中の「中村幸雄論集」に収録されています。是非ご覧ください。

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