第348話 2011/11/15

九州年号の史料批判(3)

 九州王朝や九州年号研究において、一次史料や二次史料は比較的その信頼性が高いこともあり、論証や仮説の構築に使用しやすいのですが、三次史料になると 同類史料の数や写本間の異同も増えて、史料批判が難しくなります。すなわち、どの三次史料がどの程度歴史の真実を反映しているかの判断が難しくなるのです。
 たとえば九州年号群史料として、中世以降数多く成立した年代暦の類がありますが、これら年代暦の史料としての優劣の判断が九州年号研究においても論争の対象となっていました。
 現在の研究水準では『二中歴』所収「年代歴」に記された九州年号の年号立てが最も原型に近いとされていますが、当初は朱鳥がなく大長がある、いわゆる 「丸山モデル」(丸山晋司氏が提唱)が本来の九州年号の年号立てと見なす説が有力でした。わたしも一時期そのように考えていました。
 その理由の第一は、『二中歴』を除く多くの年代暦には朱鳥がなく大長があること。第二に、『日本書紀』にまで記された朱鳥が本当に存在したのなら、多くの年代暦から消えていることの説明がつかない。したがって九州年号にはもともと朱鳥は無かったという理由からでした(『日本書紀』の朱鳥は『日本書紀』編纂時の造作とする)。
 このような年代暦史料の「多数決」と、朱鳥が消えた理由を説明できないという「論理性」が、朱鳥があり大長がない『二中歴』よりも、「丸山モデル」を正しいとする根拠だったのです。
 もちろんこの「丸山モデル」に対する強力な反論もありました。熊本市の平野雅曠さん(故人)から、『日本書紀』の三年号のうち、大化と白雉を九州年号からの盗用としながら、朱鳥だけは造作とする根拠がない、というものでした。今から考えればこの平野さんの指摘は史料批判上もっともなものだったので、丸山さんもこの批判に対して有効な反論ができていませんでした。こうしたこともあり、『二中歴』が見直されるようになったのです。(つづく)

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