羽黒山開山伝承、「勝照四年」棟札の証言
羽黒三山神社の公式ホームページの解説(注①)により、羽黒山開山伝承が後世(江戸時代初期)において改変を受けていたことがわかりました。当時、羽黒山の別当であった宥俊や弟子の天宥が、羽黒山を開山したとされる能除を天皇家の血筋と関連付けるために、崇峻天皇の太子である蜂子皇子のこととしたようです。そうせざるを得なかった理由の一つに、「勝照四年戊申」(588年)という開山年次を記した伝承の存在があったと思われます。慶長十一年(1606年)の修造時に作られた棟札(注②)に「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」とあったことがそのことを指し示しています。
開山の時代(六世紀末頃)にあって、行方が不確かな〝皇族〟を探し求めた結果、崇峻天皇の子供の蜂子皇子が能除の候補者に最も相応しいと、宥俊や天宥は考えたのでしょう。なお、能除を崇峻天皇の第三皇子とする、十六世紀成立の史料「出羽国羽黒山建立之次第」(注③)もあるようですが、わたしは未見のため、調査したうえで別述したいと思います。
このような後世(江戸時代初頭)の開山伝承の改変を、おそらくは現在の羽黒三山神社のホームページ編集者は感じ取っているものと思われます。それは諸説を併記した次の用心深い記述姿勢からもうかがわれます。
「開祖・能除仙(のうじょせん)
出羽三山を開き、羽黒派古修験道の開祖である能除仙は深いベールに包まれた人である。社殿に伝わる古記録では、能除は『般若心経』の「能除一切苦」の文を誦えて衆生の病や苦悩を能く除かれたことから能除仙と呼ばれ、大師・太子とも称された。またそれとは別に参仏理大臣(みふりのおとど)と記されたものもあり、意味は不明であるがその読み方から神霊に奉仕する巫とする見方もあった。」
以上の史料状況からすると、最も信頼性が高い史料は棟札の「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」という記事であり、能除は参仏理大臣(みふりのおとど)とも呼ばれたという『記紀』には見えない伝承ではないでしょうか。これらを九州王朝説の視点で考察すれば、九州年号「勝照四年」(588年)で記録された原伝承があり、その人物は能除あるいは参仏理大臣と呼ばれていたとできそうです。しかも、六世紀末頃の出羽地方が舞台であることを考慮すれば、倭国(九州王朝)から蝦夷国領域への仏教東流伝承の一つではないかと思われます。
エビデンスが少なく、わたしの勉強不足もあり、まだ断定できる状況ではありませんが、蝦夷国研究のための一つの作業仮説として提示します。
(注)
①「出羽三山神社」ホームページ>御由緒>羽黒派古修験道>開祖・能除仙(のうじょせん)。
http://www.dewasanzan.jp/publics/index/75/
②『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。
③大友義助「出羽三山・鳥海山の山岳伝承」(五来重編『修験道の伝承文化』名著出版、1981年)に「出羽国羽黒山建立之次第」が紹介され、その奥書には「永禄三年庚申霜月上旬」(1560年)の年次があるとのこと。