第2794話 2022/07/22

羽黒山開山伝承と「勝照四年」棟札との齟齬

 「洛中洛外日記」2792話(2022/07/20)〝失われた棟札、「勝照四年戊申」銘羽黒山本社〟で紹介した「勝照四年戊申」棟札は慶長十一年(1606年)の修造時に作られたもので、同時代「九州年号棟札」ではありません。しかしながら、羽黒山開山伝承が後世の改変を受けていたことを証言する貴重な史料のようです。このことについて説明します。
 羽黒山神社は崇峻天皇の皇子(蜂子皇子=能除大師)が開基したと伝わっています。羽黒三山神社のホームページ(注①)では次のように説明されています。

〝開祖・能除仙(のうじょせん)
 出羽三山を開き、羽黒派古修験道の開祖である能除仙は深いベールに包まれた人である。社殿に伝わる古記録では、能除は『般若心経』の「能除一切苦」の文を誦えて衆生の病や苦悩を能く除かれたことから能除仙と呼ばれ、大師・太子とも称された。またそれとは別に参仏理大臣(みふりのおとど)と記されたものもあり、意味は不明であるがその読み方から神霊に奉仕する巫とする見方もあった。
 江戸初期、羽黒山の別当であった宥俊や弟子の天宥は、能除が第32代崇峻天皇(~592)の太子であると考え、つてを求め朝廷の文書や記録の中にその証拠となる資料を求めたところ、崇峻天皇には蜂子皇子と錦代皇女がおられたことが判明し、能除仙は蜂子皇子に相違ないと考えるようになる。その頃から開祖について次のように語られるようになる。父の崇峻天皇が蘇我馬子(~626)に暗殺され、皇子の身も危うくなり、従兄弟の聖徳太子(574~622)の勧めに従い出家し斗擻の身となって禁中を脱出し、丹後の由良の浜より船出して日本海を北上し鶴岡市由良の浜にたどり着く。そこで八人の乙女の招きに誘われ上陸し、観音の霊場羽黒山を目指す。途中道に迷った皇子を三本足の八咫烏が現れ、羽黒山の阿古屋へと導く。そこで修行された後羽黒山を開き、続いて月山を開き、最後に湯殿山を開かれた。この日が丑年丑日であったことから、丑年を三山の縁年とするというものである。さらに、文政六年(1823)覚諄別当は開祖蜂子皇子に菩薩号を宣下されたいと願い出て、「照見大菩薩」という諡号を賜った。それ以後羽黒山では開祖を蜂子皇子と称し、明治政府は開祖を蜂子皇子と認め、その墓所を羽黒山頂に定めた。〟

 この解説によれば、「開祖・能除仙」が羽黒山に到着したのは崇峻天皇(~592)暗殺後となりますが、棟札(注②)に記された「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」(588年)では暗殺の四年前となり、年次が矛盾します。そこで注目されるのが、「江戸初期、羽黒山の別当であった宥俊や弟子の天宥は、能除が第32代崇峻天皇(~592)の太子であると考え、つてを求め朝廷の文書や記録の中にその証拠となる資料を求めたところ、崇峻天皇には蜂子皇子と錦代皇女がおられたことが判明し、能除仙は蜂子皇子に相違ないと考えるようになる。その頃から開祖について次のように語られるようになる。」という記事です。
 この説明通りであれば、能除を崇峻天皇の太子としたのは江戸初期からとなり、それ以前は別の〝本来の伝承〟があったのではないでしょうか。棟札の成立が慶長十一年(1606年)の修造時ですから、本来の伝承の一端が「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」として記録されたと思われるのです。この二つの開山伝承の齟齬は重要です。(つづく)

(注)
①「出羽三山神社」ホームページ>御由緒>羽黒派古修験道>開祖・能除仙(のうじょせん)。
 http://www.dewasanzan.jp/publics/index/75/
②『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。

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