第2793話 2022/07/21

国内史料に遺る「百済年号」

 作成中の「九州年号金石文」の紹介資料の末尾に「百済年号」史料を添付することにしました。倭国(九州王朝)の同盟国であり、共に七世紀後半に滅んだ王朝(注①)であり、その年号が後世にどのように伝わったのかを考察する上で参考になるのではないでしょうか。
 宮崎県には、百済滅亡後に倭国(九州王朝)に亡命した百済王族のものと思われる年号史料が散見されます。宮崎県南郷村の神門(みかど)神社から発見された綾布墨書に見える「明雲廿六年」「白雲元年」という年号です。福宿孝夫氏による読み取り文を紹介します。

 記国號
白西王城百北三千国守
帝泉帝皇明雲廿六年(為)
福智帝皇白雲元年
上 六国守阿香  大将(霊)官
  四国守(居)戸 少淨(託)官
  二国守我久  勝官将一
大白部守秀(隅)  尸官将九
中 二国守白(亦)大名 尸官二
  六国月(尸)淨山  守官六
  二国部卜尸 川正尸官大
  三国天官宝王   守護
下 三部大国皇城吉巡月尸尸一
  五国少元皇外(霊)守 下官
  三国今帝王内比丘尸一
  匹部守守来結体作人見

※()内は福宿氏による推定。

 「帝泉帝皇」の「明雲廿六年」と「福智帝皇」の「白雲元年」です。この綾布墨書については拙稿「百済年号の発見」(注②)で既に紹介したところです。
 この他にも、南郷村に隣接する木城町にある比木神社の史料『比木大明神系図』に「正光元年辛巳」という百済年号が記されています。次のようです。

 「百済国王神門帝家二御王子福智王奉申、百済国正光元年辛巳福智王吾朝渡給(後略)」

 これら国内史料に遺る百済年号についての研究はまだ進んでいません。多元史観・九州王朝説による研究が待たれます。

(注)
①百済は唐との戦争に敗れ、660年に滅亡した。その後、倭国(九州王朝)の支援により再興が試みられたが、白村江戦(663年)の敗北などにより、成功しなかった。その後、倭国も国力が減衰し、701年に大和朝廷(文武天皇)と王朝交代した。ただし、九州年号は大長九年(712年)まで続いたとする研究をわたしは発表している。「最後の九州年号 ―『大長』年号の史料批判」『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)。
②古賀達也「百済年号の発見 宮崎県南郷村神門神社の綾布墨書」『古田史学会報』20号、1997年。

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