第935話 2015/04/26

「年代歴」編纂過程の考察(1)

 先日、瀬戸市の林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人)からお電話をいただき、「洛中洛外日記」924話「『二中歴』九州年号校訂跡の証言」についてご質問をいただきました。
わたしが、『二中歴』「年代歴」にある「兄弟六年 戊寅」の「六」は誤りであり、正しくは「兄弟元年」とあるべきところを、「元年」の「元」の字を「六」 と読み間違えた書写者がいたとしました。このことに対して林さんからのご指摘は、「年代歴」には「師安一年」(564年)という表記があるように、年号が1年しか続かない場合は「一年」とあるべきで、「元年」とは記さないということでした。ちなみに、林さんは「兄弟六年」のままで正しいというご意見のようでした。
 確かに「年代歴」の九州年号部分の表記としては、一年限りの九州年号は「師安一年」の例と、「兄弟六年」の傍注の「一イ」のみがあるだけですから、林さんのご指摘はもっともなものです。そこで、わたしは次のような論理展開であることを説明しました。

(1)九州年号の「兄弟」は他の史料でも元年だけの1年で終わり、翌年は「蔵和」と改元されている。
(2)「年代歴」の傍注にも「一イ」と校訂がなされていることも、この史料状況に対応している。また、翌年に「蔵和」と改元されている。
(3)従って、「兄弟六年」とあるのは、傍注通り「兄弟一年」とあるべきだった。
(4)それでは何故「六」と誤ったのかを考えたとき、本来、元史料に「一」と書かれていた字を「六」に読み間違えることは考えにくい。
(5)その点、「元年」とあったのなら、「元」と字形が似ている「六」に読み間違える可能性がある。
(6)従って、本来「兄弟元年」と表記されたものがあり、数次に及ぶ「年代歴」書写のどこかの段階で「兄弟六年」と誤写されたと考えれば、このケースの説明が可能である。
(7)このような誤写発生過程以外に「一」を「六」に誤写するケースは考えにくい。

 以上のようにわたしは判断し、先の「洛中洛外日記」を書いたのでした。そして、この誤写発生過程の可能性以外に「六」と誤写するケースを、わたしには考えられないと林さんに説明したのです。(つづく)

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