九州王朝の「分国」と
「国府寺」建立詔(2)
九州王朝は6世紀末には九州島内諸国を9国に「分国」し、全国を66国に「分国」したと、わたしは考えています。このことを「続・九州を論ず 国内史料に見える『九州』の分国」(『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』古田武彦・福永晋三・古賀達也、共著。明石書店、2000年)に詳述しましたので、ご参照ください。簡単にその論理性や史料根拠を説明します。
①「九州」という地名は、中国の天子が自らの直轄支配領域を九つに分けて統治したことを淵源に持ち、後に天子の支配領域全体を「九州」と称するようになったという政治用語である。九州王朝の多利思北孤は「海東の菩薩天子」を自認していたと思われるため、その時代(7世紀初頭)までには中国に倣って九州王朝も九州島を九つに分国したと考えられる。その名残が「九州島」の地名「九州」として現代まで続いている。
②「聖徳太子」が日本全国を33国から66国に分国したとする次の記事が史料中に見える。
「太子十八才御時(崇峻二年、589年)
春正月参内執行國政也、(中略)太子又奏シテ分六十六ケ國玉ヘリ、(中略)筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩、昔ハ六ケ國今ハ分テ九ケ國、名西海道也、(後略)」『聖徳太子傳記』(文保二年頃〔1318〕成立)
「人王卅四代の御門敏達天皇の御宇に聖徳太子の御異見にて、鏡常三年(敏達十二年、583年)癸卯六十六箇國に被割けり。(中略)年號の始は善記元年」『日本略記』(文録五年〔1596〕成立)
③『日本書紀』推古紀に「火葦北国造(敏達十二年、583年)」と「肥後国の葦北(推古十七年、609年)」という記事が見え、「火国」が「肥前国」「肥後国」に分国されたのが583年から609年の間であることを示している。
④これらの史料事実は、九州王朝による66国への分国が583年あるいは589年であることを示しており、それ以外の時期の「分国」を示す史料を管見では知らない。
以上のような論理性と史料根拠により、九州王朝による66国への分国が告貴元年(594)以前になされていたとする仮説は有力であり、これ以外の「史料根拠に基づいた仮説」の存在を、今のところわたしは知りません。(つづく)