古田先生との「大化改新」研究の思い出(6)
1992年1月から東京の文京区民センターを舞台にして始まった「大化改新」共同研究会での発表で、古田先生を別にすれば、わたしが最も注目したのが大越邦生さん(1992年12月)と増田修さん(1993年4月)の研究でした。大越さんの研究は、「大化改新詔」や『大宝律令』「大宝二年籍」などを史料根拠として、多元史観により田積法や班田収授の受田額などに焦点を絞ったもので、古田先生も次のように評価されています。
「重大な問題。研究史上の新視点。用語が不変であれば、体制の変化は判り難い。(郡・評、朝臣・条里制単位)。」(注①)
後に大越さんは「多元的古代の土地制度」(注②)として論文発表されていますのでご参照下さい。同論文を読んで、最も考えさせられたのが、王朝交替とほぼ同時期に変化する制度と、新王朝の『大宝律令』に反していても、長期にわたり変わらずに継続する九州王朝系の制度があるということでした。前者の代表例が、行政単位名「評」から「郡」への全国一斉変更(701年)です。戦後の坂本太郎さんと井上光貞さん師弟の「郡評論争」は有名ですが、藤原宮跡などから出土した荷札木簡により、700年までは「評」、701年からは「郡」であったことが判明し、「郡評論争」は決着しました。
この「評」から「郡」への事例のように、わたしは王朝交替により、全国一斉に強権的に制度変更がなされるものと漠然と理解していました。ところが大越論文により、『大宝律令』とは異なる田積基準(口分田)の実例が大宝二年の筑前国戸籍など西海道戸籍に遺存していることを知り、それまでの認識を改めざるをえませんでした。特に、西海道戸籍から数理計算的に検出された受田額が、筑前・豊前・豊後の国ごとに異なり、いずれも『大宝律令』田令の基準と大きくかけ離れているという学界での律令研究の成果(注③)は、王朝交替や九州王朝説でも簡単には説明できないほど複雑な現象であることに驚きました。
大越さんは、これらの史料状況発生理由を701年の王朝交替によるものとされ、次のように論文冒頭に述べられています。
〝こうした研究が示唆するところは「改新之詔」の郡や部、京師や畿内は、七〇一年の大宝令を五十五年近く繰り上げ、年次の偽造を行っていた。つまり真の歴史の転換点は七〇一年にあったということにある。
私は、これまでの古田氏をはじめとする研究につけ加えて、「改新之詔」第三条の田積法・田租法においても同様の結論を見い出したのでここに報告する。〟165頁
このように『日本書紀』の「大化改新」諸詔は、『大宝律令』制定など55年後に行われた〝九州年号「大化」の改新〟であり、その画期点を701年とする古田説を是とされました。なお、氏は七世紀での面積単位「代」が、八世紀には「町」に変更されたことについても、九州王朝説と701年での王朝交替の視点で論じられています。このテーマについては別述したいと思います。(つづく)
(注)
①安藤哲朗「第六回 共同研究会(92・12・18)」『市民の古代ニュース』№114、1993年2月。
②大越邦生「多元的古代の土地制度」『古代に真実を求めて』4集、明石書店、2001年。「古田史学の会」HPに収録。
③虎尾俊哉「浄御原令に於ける班田収授法の推定」『班田収授法の研究』昭和三六年(1961)。