第584話 2013/08/20

天智天皇の年号「中元」?

 わたしは第580話「近江遷都と王朝交代」に おいて「天智の時代の九州年号は「白鳳」で、白鳳年間(661~683)に天智の称制即位(662)から没年(671)までが入っていますが、即位年も没年も、新王朝の創立者として「建元」もされず、九州王朝の継承者としての「改元」もされていません。」と記したのですが、先日の関西例会の質疑応答のとき に、竹村順弘さん(古田史学の会・全国世話人)から、天智天皇の年号「中元」について関西例会で報告したことがあるとの御指摘がありました。
 確かに2011年5月の関西例会で竹村さんはそのことを発表されていました。そのときの発表を、わたしは失念していますので、恐らく「中元」を九州年号ではなく誤記誤伝の類と判断したのだと思います。しかし、現在では研究や認識が進んできたこともあり、この竹村さんの指摘には大変驚きました。
 『続日本紀』の天皇即位の宣命中に見える「不改常典」は、内容の詳細については諸説があり、未だ明確にはなっていませんが、近畿天皇家にとって自らの権威の根拠が天智天皇が発した「不改常典」にあると主張しているのは確かです。そうすると、天智天皇は近江大津宮でそうした「建国宣言」のようなものを発し たと考えられますが、それなら何故九州王朝に代わって自らの年号を建元しなかったのかという疑問があるとわたしは考えていました。ところが、竹村さんが指摘された天智の年号「中元」が江戸時代の諸史料(『和漢年契』『古代年号』『衝口発』他)に見えていますので、従来のように無批判に「誤記誤伝」として退けるのではなく、「中元」年号を記した諸史料の史料批判も含めて、再考しなければならないと考えています。ちなみに「中元」元年は天智天皇即位年 (668)で、天智の没年(671)までの4年間続いていたとされています。
 もちろんこの場合、「中元」は九州年号ではなく、いわば「近江年号」とでも仮称すべきものとなります。「中元」年号について先入観にとらわれることなく再検討したいと思います。
 それにしても、こうした予想外の御指摘をいただけるのも「古田史学の会」関西例会ならではと、竹村さんや参加者の皆さんに感謝しています。

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