第1444話 2017/07/06

「鉄屋は長安寺にあり」欽明紀

 この度の豪雨で被災された福岡県・大分県の皆様にお見舞い申し上げます。明後日の8日(土曜日)に久留米大学で講演するのですが、被災地の様子が心配です。わたしが子供の頃、同じように大雨で筑後川が増水し、近くの田圃まで浸水したことを思い出しましたが、今回はそれ以上の被害のようです。
 テレビニュースで避難勧告が出された地名がアナウンスされるのですが、知っている所が多く、心が痛みました。その中には古賀家墓地がある「うきは市御幸」もあり、お墓の中の父親やご先祖様も驚いていることでしょう。
 中でも大きな被害が出ている朝倉市は九州王朝の故地としても有名なところで、たとえば古田先生が着目された『日本書紀』欽明23年条の次の記事は有名です。

 「鉄屋は長安寺にあり。この寺、何れの国に在りということを知らず。」『日本書紀』欽明23年条(562)

 古田先生はこの「長安寺」を朝倉市にあった「朝闇寺」であると、『太宰管内志』の次の記事を根拠に指摘されました。

 「朝倉社恵蘇八幡宮 社僧の坊を朝倉山長安寺といふ。(註)朝闇寺なるべし」『太宰管内志』

 この朝倉の長安寺廃寺からは複弁蓮華文の軒丸瓦が出土しています。もし長安寺の存在が欽明23年(562)まで遡れるのであれば、7世紀後半頃とされている「複弁蓮華文軒丸瓦」の編年が大きく変わることになるのですが、『日本書紀』の記事からは「鉄屋」が長安寺にあったのが欽明期の頃なのか、『日本書紀』編纂時の情報なのかが判断できません。
 わたしは老司Ⅰ式瓦や大宰府政庁出土品と酷似した鬼瓦が長安寺廃寺から出土していますので、長安寺は7世紀後半頃の造営とするのが妥当と考えています。この問題については、私見とは異なりますが大越邦生さんの先駆的な研究(注)がありますので、論議検討の進展が期待されます。

(注)「コスモスとヒマワリ 〜古代瓦の編年的尺度批判〜」『Tokyo古田会News』94号、2004年1月。「古田武彦と古代史を研究する会」編。
 大越さんは「複弁蓮華文軒丸瓦」を通説よりも古く編年されており、7世紀後半頃とするわたしの見解とも異なります。学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させると、わたしは考えています。大越稿は論争や検討に値する優れた視点を持ったものと評価しています。

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