前期難波宮「天武朝」造営説への問い(2)
わたしの前期難波宮九州王朝副都説への批判として提示されたのが前期難波宮「天武朝」造営説です。これはわたしから提起した次の四つの質問に対する回答として出されたものです。
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。
これらの質問に答えていただきたいと、わたしは繰り返し主張してきました。近畿天皇家一元論者であれば、答えは簡単です。すなわち「孝徳天皇が評制により全国支配した難波長柄豊碕宮である」と、『日本書紀』の史料事実(実証)と上町台地に存在する巨大な前期難波宮遺跡という考古学的事実(実証)を根拠にそのように答えられるのです(ただし4は一元史観では回答不能)。
そこで古田学派の中の前期難波宮九州王朝副都説反対論者から出されたのが前期難波宮「天武朝」造営説です。その論点おおよそ次のようなものでした。
1.天武朝の頃であれば九州王朝は弱体化しており、近畿天皇家の天武が国内最大規模の朝堂院様式の前期難波宮を造営したとしても問題ない。
2.従って、前期難波宮は天武による天武の宮殿と古賀の質問に対して答えることができる。
3.飛鳥編年(白石説)によって前期難波宮整地層出土土器が天武朝の頃と判断できる。
およそこのような論旨で説明されており、わたしの質問の1と2に対する一応の回答にはなっていますが、3と4に対する回答(具体的遺跡の提示)は相変わらずなされていません。なぜでしょうか。もし、「そのうち発見されるだろう」と言われるのであれば、それは学問的回答ではなく主観的願望に過ぎません。(つづく)