『古田武彦の古代史百問百答』百考(5)
ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』189頁の「18 九州王朝の天子を『日本書紀』に入れた理由について」での次の質問に対する古田先生の回答について今回は説明します。
「質問 斉明天皇は九州王朝の天子だったといわれますが、『日本書紀』の編者はなぜ、別王朝の天子をはめこまなければならなかったのですか。」
この質問は『日本書紀』に付記された漢風諡号への「誤解」に基づいているのですが、古田先生はこの「誤解」には触れられず次のように回答されています。
「斉明は九州王朝の天子です。松山にはサイミョウという名前で地名が残っていると合田さんが言っておられますが、(中略)これをみても斉明は南朝と関係をもった九州王朝の天子だった証拠になります。
もう一つ重要なことは、これも合田さんによって紹介されましたが、伊豫に紫宸殿という地名が、残っているということです。」
「我々には紫宸殿は太宰府の場所にあったことは知られてます。しかし、あそこは唐の軍隊が入って来ました。入って来てなおかつ紫宸殿と呼ぶはずがない。白村江以後において太宰府の紫宸殿の地名は消滅したと見なければならない。」
「飛躍して言うと白村江以前の紫宸殿が太宰府。白村江以後の紫宸殿が伊豫に移っている、ということになるのではないでしょうか。そういう意味でこれをはめ込まなければならなかったという理由があります。」
この古田先生の回答は「なぜ、別王朝の天子をはめこまなければならなかったのですか。」という質問に直接答えたものではありません。なぜなら九州王朝の天子の紫宸殿の移動があったとしても、「斉明」という九州王朝の天子の名前を、淡海三船が漢風諡号として『日本書紀』斉明紀に付記しなければならない理由の説明にはなっていないからです。
しかし、7世紀後半における九州王朝史研究の新たな仮説を提示されたもので、従来の古田説と異なっており、興味深いものです。このように従来の自説と異なる新仮説の発表こそ、古田先生らしい果敢に挑戦される学問的姿勢です。
この古田新説は、白村江戦の敗北後に唐軍の筑紫進駐により、九州王朝(倭国)は太宰府の「紫宸殿」を捨てて伊豫の「紫宸殿」に遷都したとするもので、従来の九州王朝研究には無かった視点です。それではこの新説が従来の古田説とどのように相違し、どのような問題点が発生するのかについて見てみることにします。なお、伊予における字地名「さいみょう」についての考察を「洛中洛外日記」969話「みょう」地名の分布に記していますので、ご参照ください。(つづく)