第1532話 2017/11/03

古田先生との論争的対話「都城論」(2)

 10年続いた古田先生との前期難波宮論争でしたが、実はいくつかの重要な合意形成もしてきました。その一つに『日本書紀』孝徳紀に孝徳の宮殿と記された「難波長柄豊碕宮」についての見解です。
 一元史観の通説では「難波長柄豊碕宮」を法円坂の巨大宮殿遺構前期難波宮としているのですが、古田先生もわたしも地名が異なっているので、そこではないと意見が一致していました。わたしは大阪市北区の長柄・豊崎が地名が一致しており、そこを有力候補とする試案を発表しました。古田先生は博多湾岸の愛宕神社近辺の類似地名「名柄川」「豊浜」などを根拠に当地にあったとする仮説を発表されました。それぞれに根拠(地名の一致、類似)があるため、7世紀中頃の宮殿遺構の有無が決め手になるとわたしは指摘してきました。
 なお、わたしの前期難波宮九州王朝副都説の本質は、あの国内最大規模の前期難波宮を九州王朝説の立場からどのように理解し位置づけるのかにありますから、孝徳の宮殿と記された「難波長柄豊碕宮」の場所の問題は直接には前期難波宮副都説とは関係ありません。この点を誤解された批判や論稿が散見されますので、指摘しておきたいと思います。
 この「難波長柄豊碕宮」について、古田先生は博多湾岸の愛宕神社とされたのですが、2008年1月の大阪市での講演会では次のように話されていました。

 「九州王朝論の独創と孤立について」(古田武彦講演会、主催「古田史学の会」、2008年1月19日)

 福岡市西区に「名柄(ながら)川」「名柄(ながら)浜」「名柄団地」があり、今は地図にないが「名柄(ながら)町」があった。それで「ナガラ」という地名はありうる。(中略)
 それで、わたしがここではないかと考えていたのが、そこの豊浜の「愛宕山」。愛宕神社がある。平地の中にしてはたいへん小高いので、今まで敬遠して上ったことはなかった。(中略)それで上に登ると絶景で、博多湾が目の下に見えている。そして岩で出来ていて、目の下が豊浜。(中略)
 九州王朝の歴史書で書かれていた「難波長柄豊碕宮」はここではないか。(中略)もちろんこの「難波長柄豊碕宮」は、太宰府の紫宸殿とは別のところにあります。別宮のような性質です。以上が「難波長柄豊碕宮」に対する現在のわたしの理解です。
(『古代に真実を求めて』第12集所収。古田史学の会編・明石書店、2009年)

 九州王朝の都城の所在地の変遷について、古田先生と論議を続けていましたので、この古田仮説にわたしは疑問をいだいていました。(つづく)

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