第1571話 2018/01/11

評制施行時期、古田先生の認識(7)

 古田先生が『市民の古代』第6集(1984年、中谷書店)収録の古田武彦講演録「大化改新と九州王朝」で、「行政単位が倭国側と新羅側は非常に似ていますね」と述べられたことに対して、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)より、古田先生が「行政単位」という言葉を詳細な説明なしに使われたため、「評」という言葉の淵源と「評制」の開始時期を混同するという誤解を招いているとのご意見をいただきました。その上で、評制施行が七世紀中頃とする古田先生の認識こそが重要との助言をいただきました。これはもっともなご意見ですので、古田先生が評制開始を七世紀中頃と認識されていた証拠をもう一つ紹介することにします。
 古田先生が評制(行政区画「国・評・里(五十戸)」制)の開始時期についてどのように認識されていたのかがわかる文が『古代史の十字路 万葉批判』(東洋書林、2001年)にあります。

 「しかも、万葉集の場合、明白な、その証拠を内蔵している。巻一の「五」歌だ。
 『讃岐国安益郡に幸(いでま)しし時、軍王の山を見て作る歌』
 この歌は、『舒明天皇の時代』の歌として配置されている。
 『高市岡本宮に天の下知らしめし天皇の代、息長足日広額天皇』
の項の四番目に位置している。
 舒明天皇は『六二九〜六四一』の治世である。とすれば、明白に『郡制以前』の時代である。七世紀前半だから、『評』に非ずんば『県』などであって、まかりまちがっても『郡』ではありえない時間帯だ。」(219頁。ミネルヴァ書房版)

 ここに「七世紀前半だから、『評』に非ずんば『県』などであって」と記されているように、評制開始は七世紀中頃という認識が前提にあって、七世紀前半の行政区画名として「評」かそれ以前の「県」などであるとされているのです。もし評制開始が六世紀にまで遡ると古田先生が考えておられたのであれば、「『評』に非ずんば『県』など」とは書かれず、「評の時代」と書かれたはずです。
 このように、古田先生が評制開始時期を七世紀中頃とされてきたのは明白ですし、そうした認識を前提にして、古田先生は30年にわたってわたしとの評制に関する学問的対話や、学会発表を続けてこられたのです。
 ちなみに、古田先生が使用されていた岩波の日本古典文学大系『万葉集』の先の「讃岐国安益郡」の部分の「郡」の字に、先生は◎印をつけておられました。その「郡」の字をわたしに示し、『万葉集』も『日本書紀』と同様に「評」を「郡」に書き換えていますと、熱く語っておられたことを、本稿を書いていて思い出しました。今から20年ほど前のことでした。(つづく)

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