庚午年籍は筑紫都督府か近江朝庭か(1)
昨日の新春古代史講演会(古田史学の会主催)では服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)と正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が最新の研究成果を発表されました。どちらも刺激的な仮説が発表されましたが、正木さんの「九州王朝の近江朝」という新仮説は様々な問題の解明に役立つ反面、新たな疑問も生まれるものでした。
正木説によれば、白村江戦など唐や新羅との決戦に備え、九州王朝(倭国)は難波宮より安全な近江大津宮へ「遷都」したとされ、唐に捕らえられ、その配下の筑紫都督として帰国した薩夜麻に対して、近江朝廷の九州王朝の家臣たちは留守役の天智を天皇に擁立し、九州王朝の皇女だった「倭姫王」を天智は皇后に迎え、九州王朝の権威を継承したとされました。
この正木説によれば、庚午年籍の造籍を全国に命じたのは近江朝廷(天智)となります。他方、従来の古田旧説によれば庚午年籍は筑紫の九州王朝による造籍とされてきました。ところが晩年の古田新説では、筑紫太宰府は唐の軍隊に制圧され、宮殿や陵墓は破壊され、九州王朝(倭王・斉明)は伊予の「紫宸殿」に逃れたとされました。この古田新説では筑紫での庚午年籍造籍は不可能となりますし、正木説でも唐と対立した近江朝は、少なくとも唐軍が進駐している九州地方の造籍はできないことになります。しかし、庚午年籍が筑紫や全国で造籍されたことは明らかです。このことは古田先生も正木さんも認めておられます。
庚午年籍を全国的に造籍させた権力主体について、正木説でも古田新説でもうまく説明できないと思われるのです。(つづく)