九州王朝の難波大道(1)
二月の「誰も知らなかった古代史」(正木裕さん主宰)で安村俊史さん(柏原市立歴史資料館・館長)の講演「7世紀の難波から飛鳥への道」をお聞きして、とても勉強になりました。特に前期難波宮の朱雀門から真っ直ぐに南へ走る難波大道が7世紀中頃の造営とされる考古学的根拠の解説は興味深いものでした。わたしの前期難波宮九州王朝副都説から考えれば、この難波大道も九州王朝の造営とならざるを得ないからです。
通説では難波大道の造営時期は『日本書紀』推古21年(613年)条の「難波より京に至る大道を置く」を根拠に7世紀初頭とされているようですが、安村さんの説明によれば、2007年度の大和川・今池遺跡の発掘調査により、難波大道の下層遺構および路面盛土から7世紀中頃の土器(飛鳥2期)が出土したことにより、設置年代は7世紀中頃、もしくはそれ以降で7世紀初頭には遡らないことが判明したとのことです。史料的には、前期難波宮創建の翌年に相当する『日本書紀』孝徳紀白雉4年(653年、九州年号の白雉2年)条の「處處の大道を修治る」に対応しているとされました。
この難波大道遺構(堺市・松原市)は幅17mで、はるか北方の前期難波宮朱雀門(大阪市中央区)の南北中軸の延長線とは3mしかずれておらず、当時の測量技術精度の高さがわかります。これも前期難波宮九州王朝副都説によれば、九州王朝の土木技術水準の高さを示していることになります。そして、九州王朝は前期難波宮造営とともに遙か南の堺市付近まで朱雀大路を延長し、難波大道を造営したことになります。こうした事実から、九州王朝は難波副都造営にあたり、かなり大規模な都市計画を持っていたことがわかってきました。
安村さんの説明では、この南北正方位の道路規格や方格地割は中国の制度を取り入れたものであり、その痕跡は難波京条坊や難波大道にとどまらず、田圃の条里(110m四方の畦跡)や飛鳥の小墾田宮の周辺にも影響を及ぼし、7世紀前半では斜行していた道路や建物が中頃には正方位になるとのこと。こうした事実から、九州王朝による正方位の都市計画思想が難波京の条坊都市だけではなく、飛鳥の近畿天皇家の宮殿にも影響を及ぼしたことがわかります。(つづく)