京都市域(北山背)の古代寺院(6)
連載した「京都市域(北山背)の古代寺院」の最後として大宅廃寺(山科区)を紹介します。大宅廃寺は早くから顕著な遺跡として認識されていましたが、昭和33年の名神高速道路建設に伴う調査でその一部が明らかとなりました。そして平成16年の調査で金堂基壇(二重基壇)が発見され、七世紀末頃の創建であることがわかりました。
大宅廃寺の発掘調査で、最も注目されたのが藤原宮の瓦(藤原宮6646C型式)と同笵瓦の出土でした。しかも藤原宮よりも大宅廃寺の瓦の方が先行しており、この地で使用された笵型が藤原宮に転用されたこととなります。この事実は、七世紀末頃には近畿天皇家の影響力が山背国にまで及んでいたことを意味します。当時の近畿天皇家は没落した九州王朝に替わって列島の第一権力者に上りつめ、701年には王朝交替(九州王朝・倭国から大和朝廷・日本国へ)を果たし、九州年号に代えて[大宝」年号を建元しました。そのことを大宅廃寺から出土した藤原宮との同笵瓦も「証言」しているのではないでしょうか。
このように、京都市域の古代寺院遺構を多元史観・九州王朝説で俯瞰することにより、新たな山背国古代史学が成立すると思われます。(おわり)