第1908話 2019/05/26

「釆女氏塋域碑」の碑文「四千代」について

 今月の「古田史学の会」関西例会で、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)より「釆女氏塋域碑」(己丑年、689年)も九州王朝系のものであり、そこに記された「飛鳥浄原大朝庭」を太宰府飛鳥とする見解が発表されました。
 河内国春日村(現・南河内郡太子町)から出土したとされる「釆女氏塋域碑」は行方不明となり、次のような江戸時代の碑文拓本が残されています。

《釆女氏塋域碑》
飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
 己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
己丑年十二月二十五日。

※現存唯一の真拓(小杉文庫蔵拓本。現在は静岡県立美術館蔵)による。

碑文中の采女竹良の墓所「四千代」という面積は当地に隣接する用明陵、推古陵、聖徳太子陵よりも広いことから、近畿天皇家の官僚のものではないとして、采女竹良を九州王朝(飛鳥浄原大朝廷)が大弁官に任命したものであり、その「飛鳥浄原大朝廷」も太宰府のこととされました。
 「四千代」という面積は「八町」(一町は106m四方)に相当し、「四千代」という広大な墓所は従来の研究でも問題視されてきました。そのため、「四千代」とする論者は采女竹良の一族の墓所と理解してきました(注①)。
 他方、「千」の字は本来は「十」であり、墓碑表面のひびなどにより拓本では「千」に見えているとする見解も有力視されてきました。その上で、「四十代」であれば采女竹良個人の墓所として妥当な面積であるとされました(注②)。
 関西例会で服部さんにこの拓本の文字について確認したところ、「四千代」であったとのことでした。ただし、現存する真拓は小杉文庫蔵拓本だけであり、その他のものは印刷用に作成された「摺本」「版本」ですから、服部さんがどの「拓本」で確認されたのかも重要です。この点、真拓で確認された三谷芳幸さんの論文(注②)によれば、真拓には碑文表面の傷の跡が多く、問題の「千」とされた字も碑文の他の字との比較により「十」と判断されています。
 わたしも、「千」の字は「4」の字に近い字形であり、碑文にある「穢」の字の「禾」の第一画や、「代」「他」の第一画と比べて明らかに異なっていますので、表面の傷により「十」が「4」のような字になって拓出されたとする三谷さんの見解に賛成です。
 なお一言すれば、確かに「四千代」という墓所の面積は「直大弐」の官位の官僚にしては広すぎます。しかし、それは大和(近畿天皇家)であれ筑紫(九州王朝)でれ同じことですから、「四千代」という墓所の面積は九州王朝の官僚と断定する根拠にはなりません。また、同墓碑は河内国春日村の妙見寺に伝わってきたものですから、やはり近畿天皇家の官僚とする通説の方が穏当と思われます。その上で、なぜ持統天皇の時代(己丑年、689年)において、近畿天皇家が官僚任命権を持つことができたのかという視点での研究が必要なのではないでしょうか。
 本稿の是非にかかわらず、服部さんが提起された問題点や仮説は重要なテーマであり、引き続き論議検証されるべきものであることは言うまでもありません。このことを最後に強調しておきたいと思います。

(注)
①近江昌司「釆女氏塋域碑について」『日本歴史』431号 1984年4月。
 近江昌司「妙見寺と釆女氏塋域碑」『古代文化』49(9) 1997年。
②三谷芳幸「釆女氏塋域碑考」『東京大学日本史学研究室紀要』創刊号 1997年。

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