『続日本紀』に見える「○○根子天皇」(2)
『続日本紀』宣命などに見える「倭根子天皇」という称号の「倭根子」について、岩波の新日本古典文学大系『続日本紀』では、倭(やまと・今の奈良県)の中心に根をはって中心で支えるものという趣旨の解説がなされています。しかし、わたしはこの解説に納得できませんでした。というのも、元明天皇即位の宣命(慶雲四年)では天智天皇を「近江大津宮御宇大倭根子天皇」と呼び、聖武天皇即位の宣命(神亀元年)でも「淡海大津宮御宇大倭根子天皇」と呼んでおり、先の解説が正しければ滋賀の大津宮で即位し、その地で没した天智は「近江根子」か「淡海根子」であって、「倭根子」ではないからです。
他方、奈良県(倭・やまと)の飛鳥で即位し、その地で没した天武天皇は『続日本紀』宣命では「倭根子」と呼ばれることはなく、聖武天皇の「太上天皇に奏し給へる宣命」(天平十五年)では「飛鳥浄御原宮ニ大八洲所知シ聖ノ天皇」と称されています。ところが、奥さんの持統天皇は元明天皇即位の宣命(慶雲四年)で「藤原宮御宇倭根子天皇」とあり、「倭根子」と称されているのです。天武も持統も共に倭(やまと、奈良県)に根をはった天皇であるにもかかわらず、この差は一体何なのでしょうか。
このような疑問を抱きながら『続日本紀』宣命を読んでいると、あることに気づきました。『続日本紀』宣命の中で「倭根子」と最初に称された天皇は天智であり、それよりも前の天皇は誰も「倭根子」とはされていないのです。そこで思い起こされるのが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が出された〝九州王朝系近江朝庭〟という仮説です。すなわち、近畿天皇家出身の天智が九州王朝を受け継いで近江大津宮で即位し、九州王朝(倭国)の姫と思われる「倭姫」を皇后に迎えたというものです。この仮説に基づけば、「大倭根子天皇」と宣命で称された最初の天皇である天智は、奈良県の倭(やまと)ではなく、九州王朝「大倭国」の倭に〝根っこ〟が繋がっていることを意味する「大倭根子」だったのではないでしょうか。この点、宣命には天智だけが「大」がつく「大倭根子天皇」とされていることも、わたしの仮説を支持しているように思われます。
この仮説に立てば、天智と血縁関係にある子孫の天皇は「倭根子」を称することができ、そのことを定めたのが「不改の常典」とする理解も可能となります。そのため、天智の娘である持統は「倭根子天皇」と宣命に称され、天智の弟の天武は九州王朝を受け継ぐことができなかったので宣命では「倭根子」と呼ばれなかったのではないでしょうか。
なお、淳仁天皇は天武の孫であり、通常〝天武系〟とされますが、祖母は天智の娘(新田部皇女)であるため、天智の子孫として「倭根子」を称することができたと考えることができます。文武天皇も同様で、父親は天武の子供の草壁皇子で〝天武系〟とされますが、母親は天智の娘(元明天皇)で、祖母は同じく天智の娘の持統です。
この「倭根子」の仮説が成立するか、これから検証作業に入ります。まずは『日本書紀』の「倭根子」記事の調査と検討からです。(つづく)