第2178話 2020/06/29

九州王朝の国号(7)

 「倭」から「委」に至る国号変更の過程(思考経緯)を推定しました。次に、『隋書』には九州王朝の国号が「委」ではなく、帝紀には「倭」、夷蛮伝には「俀国」とあることについて考察します。
 九州王朝の天子、多利思北孤は隋に国書を出しており、そこには自国の国名として「大委国」と記したと思われます。その史料根拠は先に紹介した『法華義疏』冒頭に見える「大委国」の表記です。すなわち、音韻変化に対応して自国の国号表記を「倭」から「委」に代えた九州王朝は、更に尊称の「大」の字を国号に冠したのです。その理由として考えられるのが、『隋書』俀国伝に見える次の記事です。

 「大業三年(607)、其王多利思北孤遣使朝貢使者曰、聞海西菩薩天子重與佛法故遣朝拜。兼沙門數十人來學佛法。其國書曰、日出處天子致書日没處天子無恙云云。(中略)
 其王與清相見大恱。曰、我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢我夷人僻在海隈不聞禮義。」『隋書』俀国伝

 九州王朝の天子(多利思北孤)が国書の中で、隋の天子(煬帝)を「日没處天子」と呼び、自らも「日出處天子」と対等の「天子」を称していることは有名です。更に多利思北孤が隋使(裴清)に対して、「大隋禮義之國」と述べていることも注目されます。隋のことを「大隋」と呼んでいることから、自らの国も「大委」と称して対等であると主張していたとしても不思議ではありません。隋の天子と対等な天子と自負していたのですから、むしろ当然のことではないでしょうか。
 このように『隋書』の史料事実から、多利思北孤の時代の九州王朝が自国の国号を「大委」としていたとする理解は、『法華義疏』の「大委国」とも対応しており、有力です。それではなぜ『隋書』にはこの「大委国」表記が採用されなかったのでしょうか。(つづく)

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