第2186話 2020/07/17

九州王朝の国号(12)

 本シリーズも最終章へと入ります。それは九州王朝から大和朝廷への王朝交替期、七世紀末から八世紀初頭での九州王朝の国号です。「壬申の乱」により「日本国」を名乗った「九州王朝系近江朝」は滅びます。その後の九州王朝(筑紫君薩野馬の王朝)、あるいは実力的に列島内ナンバーワンとなった天武や持統は自らの国号をどのようにしたのでしょうか。ここでも、同時代史料に基づいて考察を進めます。
 結論から言えば、天武や持統は国号として「日本国」を「九州王朝系近江朝」から継承したと、わたしは考えています。その史料根拠は次の藤原宮跡出土「評」木簡に見える「倭国」の表記です。

 「※妻倭国所布評大野里」(※は判読不明の文字)藤原宮跡北辺地区遺跡出土

 奈良文化財研究所HPの木簡データベースによれば、「倭国所布評大野里」とは大和国添下郡大野郷のことと説明されています。これは「評」木簡ですから、作成時期はONライン(701年)よりも前で、藤原宮跡出土の七世紀末頃のものと推測できます。近畿天皇家の中枢領域から出土した九州王朝末期の木簡に「倭国」という表記があることは注目されます。
 『旧唐書』などの中国史書では、九州王朝の国名を「倭国」と記していますが、『日本書紀』などの国内史料では今の奈良県に相当する「大和(やまと)国」を「倭国」や「大倭国」などと漢字表記されています。そして、「倭国所布評」木簡によれば、九州王朝の国名「倭国」を、王朝交代(701年)の直前に、近畿天皇家は自らの中枢領域「やまと」の地名表記に採用しているわけです。
 それでは、このとき近畿天皇家は自らの国名(全支配領域)を何と称したのでしょうか。九州王朝の国名「倭国」は、既に自らの中心領域名に使用していますから、これではないでしょう。そうすると、あと残っている歴史的国名は「日本国」だけです。
 このように考えれば、近畿天皇家は遅くとも藤原宮に宮殿をおいた七世紀末(「評」の時代)に、「日本国」を名乗っていたことになります。『旧唐書』に倭国伝と日本国伝が併記されていることから、近畿天皇家が日本国という国名で中国から認識されていたことは確かです。その自称時期については、漠然と七〇一年以後とわたしは考えていたのですが、この木簡理解の論理展開によれば、七〇一年よりも前からということになります。
 以上の論理により、天武・持統らは七世紀末には天智の「九州王朝系近江朝」の国号「日本国」を継承していたと思われます。このことについては、『東京古田会ニュース』168号の拙稿「藤原宮出土『倭国所布評』木簡の考察」で詳述しましたので、ご参照下さい。(つづく)

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