文武天皇「即位宣命」の考察(1)
このところ、アマビエ伝承や滋賀県の「聖徳太子」伝承など、最近、注目されているテーマを集中して取り上げましたが、それらの考察も一段落しましたので、今回から新たに文献史学のベーシックなテーマを論じます。それは『続日本紀』冒頭に見える文武天皇の「即位の宣命」です。
古田説では、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替は701年(大宝元年)に起こったとされています。従って、近畿天皇家はそれまでは九州王朝の有力臣下であり、列島内ナンバーツーの実力者です。その近畿天皇家が「天皇」号を名乗ったのは、初期の古田説(古田旧説)では七世紀初頭の推古の時代からとされていましたが、晩年の古田新説では王朝交替した701年からと変更されました。この点について、わたしは古田旧説を支持していますが、古田新説を支持する意見もあることから、検証や論争が続くことと思います。このように異なる意見が自由に出され、真摯な論争が行われることは学問の発展にとって不可欠であると、わたしは考えています。
今回のテーマ〝文武天皇「即位宣命」の考察〟は、この新旧の古田説の検証にも関係し、王朝交替時の実態に迫る上でも重要なテーマです。古代史学界でもこれまで多くの論文が発表され、論争が続いていますが、わたしは多元史観・九州王朝説の視点から考察することにします。しばらく、お付き合い下さい。
参考までに同宣命の訳文を掲載します。(つづく)
[文武天皇位に即きたまふ時の宣命]
(『続日本紀』巻第一、文武天皇)
元年(六九七)八月甲子朔禅を受けて位に即きたまふ。
庚辰(十七日)詔して曰はく、(以下、即位の宣命)
現御神と大八島国知(しろ)しめす天皇が大命らまと詔(の)りたまふ大命を、集侍(うごな)はれる皇子等・王等・百官人等、天下の公民、諸(もろもろ)聞(きこ)し食(め)さへと詔る。
高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中今に至るまでに、天皇が御子のあれ坐(ま)さむ彌(いや)継々(つぎつぎ)に、大八島国知らさむ次と、天つ神の御子ながらも、天に坐す神の依(よさ)し奉りしままに、この天津日嗣高御座(あまつひつぎたかみくら)の業(わざ)と、現御神と大八島国知らしめす倭根子天皇命の、授け賜ひ負(おは)せ賜ふ貴き高き広き厚き大命を受け賜り恐(かしこ)み坐して、この食国(おすくに)天下を調(ととの)へ賜ひ平(たひら)げ賜ひ、天下の公民を恵(うつくし)び賜ひ撫で賜はむとなも、神ながら思しめさくと詔りたまふ天皇が大命を、諸聞こし食さへと詔る。
是を以ちて、天皇が朝廷の敷き賜ひ行ひ賜へる百官人等、四方の食国を治め奉れと任(ま)け賜へる国国の宰等に至るまでに、国法を過ち犯す事なく、明(あか)き浄き直き誠の心にて、御称称(みはかりはか)りて緩(ゆる)び怠る事なく、務め結(しま)りて仕(つか)へ奉れと詔りたまふ大命を、諸聞こし食さへと詔る。
故(かれ)、如此(かく)の状(さま)を聞きたまへ悟りて、款(いそ)しく仕へ奉らむ人は、その仕へ奉らむ状の随(まま)に、品品(しなしな)讃(ほ)め賜ひ上げ賜ひ治め賜はむ物そと詔りたまふ天皇が大命を、諸聞し食さへと詔る。
※岩波文庫『続日本紀宣命』等による。