文武天皇「即位の宣命」の考察(8)
文武天皇「即位の宣命」には、『続日本紀』に収録された他の天皇の即位の宣命と異なる点があります。その一つは、この宣命が出されたのが即位(文武元年〔697年〕八月一日)の16日後(同、八月十七日)という点です。他のほとんどの天皇は即位したその日に「即位の宣命」を出しています。持統天皇の譲位による即位ですから、それほど長文でもない「即位の宣命」を作成する期間は充分あったはずなのに、このタイムラグは不審です。
わたしの想像では、それまでの近畿天皇家内部のトップ交代であれば「内部通達」だけでよかったのでしょうが、四年後(701年)の王朝交替を前提としたトップ交替ですから、近畿天皇家以外の諸豪族への説明も必要と判断し、その結果、16日後の宣命になったのではないでしょうか。
ところが、遅れて出された「即位の宣命」からは、王朝交替の正統性や引き継いだ権威の淵源についての直接的な表現での説明はありません。そこで『続日本紀』中の各天皇の「即位の宣命」を改めて精査したところ、慶雲四年(707年)七月十七日に出された元明天皇の「即位の宣命」にそのことが示されていました。宣命冒頭の当該部分を転載します。(つづく)
【元明天皇「即位の宣命」】
(『続日本紀』巻第四、元明天皇)
慶雲四年秋七月壬子(十七日)、天皇大極殿に即位す。詔して曰はく、(以下、即位の宣命)
現神(あきつみかみ)と八洲御宇倭根子天皇が詔旨(おほみこと)らまと勅(の)りたまふ命を、親王・諸王・諸臣・百官人等、天下公民、衆(もろもろ)聞きたまへと宣(の)る。
関(かけま)くも威(かしこ)き藤原宮御宇倭根子天皇(持統天皇)、丁酉(持統十一年〔697年〕)八月に、此の食国(をすくに)天下の業(わざ)を、日並所知(ひなみしの)皇太子(草壁皇子)の嫡子、今御宇しつる天皇(文武天皇)に授づけ賜ひて、並び坐(いま)して此の天下を治め賜ひ諧(ととの)へ賜ひき。是は関くも威き近江大津宮御宇大倭根子天皇(天智天皇)の、天地と共に長く月日と共に遠く不改常典と立て賜ひ敷き賜へる法を、受け賜り坐して行ひ賜ふ事と衆受け賜りて、恐(かしこ)み仕(つか)へ奉りつらくと詔(の)りたまふ命を衆聞きたまへと宣る。(以下、略)